I Wanna Cry
【 9.彼の名 】
「あらあら、こんなところに? 珍しい〜、勧誘?」 注文を聞きに来たウエイトレスは、客が同僚の彼であることに気付き、親しげに話し掛けた。 「うるせーな。いつものでいいから」 うざった気に、嫌な虫を追い払うように言った。 「はいはい。いつもの、いつもの」と繰り返しながら、ウエイトレスは離れていった。 来てくれないとあきらめていたところに、彼が現れた。 彼がウエイターではなく、大分遅れてから、相席に座るというシュミレーションは考えてなかった。 なんて話し掛けたらいいのだろう。 私は必死になって考えた。 今日の天気は秋日和。けれど、吹く風は少し冷たかった。 こんな話してもしょうがない……。 今日はお仕事じゃなかったんですね? そんなこと聞いたら、彼に失礼だ。 気だけがあせり、ちっともいい話題が浮かんでこない。 「……ずいぶん待たせてしまったな」 彼はすまなさそうに告げた。 そんなことないと言おうとして顔を上げると、彼は冷めたコーヒーに視線を落としていた。 「ごめんな」 いいえ、そんなことないですと言いたかったのに、声が出なかった。私は首を横に振るのが精一杯だった。 彼は知っているのかもしれない。 ずっと待ち続ける淋しさを、不安を。 「おまたせ〜、はい、いつもの」 ウエイトレスが彼の前にどんとジュースを置いた。 バナナジュースだった。 彼はこういうのいつも飲んでいるんだ。意外だなと思っていると、おいと彼はウエイトレスに声をかけた。 「お前……」 物凄く不機嫌だった。 彼の態度に楽しげにくすくす笑いながらウエイトレスは立ち去っていった。 彼はバナナジュースを見て、はぁと溜息をついた。 「どうしたんですか?」 「……いや、ちょっとこっちのこと」 何ことなのだろう? バナナジュースに意味があるのかな? 「バナナジュース、お嫌いですか?」 彼は小さく笑った。 「嫌いじゃないよ」 言ったのの、むすりとむくれてバナナジュースを見詰めていた。 子どもみたいだと思った。 私よりずいぶん年上の男の人が、私より小さな男の子のように映った。 「悪いけど、店出てもいいか?」 「ええ、いいですけど……」 どうしてだろう? ついさっき来たばかりで、注文したばかりなのに。 バナナジュースを口につけていない。 バナナジュースには嫌な思い出があって飲みたくないのだろうか。 「これ以上、冷やかされるのは嫌なんでな」 彼はオーダーを手にとり、立ち上がった。続いて私も立ち上がり彼の後を付いて行った。 冷やかし……。 バナナジュースは店の人たちだけが知っている何かの意味があるんだ。 「毎度アリガトーゴザイマスー」 レジ係の男の人はやけに棒読みで対応した。 「……てめーら、後で覚えてろよ」 「はて? 最近めっきり記憶力が低下しておりましてね〜。年ですかね〜」 レジ係はとぼけた。レジ係の彼はどうみても、20歳くらいにしか見えない。 レジ係はオーダーに何か書くと、「アリガトーゴザイヤシタ」と棒読みで一礼した。 私と目が合うとにまにま笑った。何か意味のある笑いだった。 何だろう? 部外者の私にはさっぱりわからなかった。 そういえば! お金払ってない!! レジで彼も、払ってない! 「あの……」 前を歩く彼に呼びかけた。 彼は何? と振り返った。 「お支払してないんですけど……」 「ああ、いいんだよ。払わなくて。ずいぶん遅れてたし。店の関係者はオーダーに名前書いて、その代金分を働けばいいんだ」 「ということは?」 「1時間ほどただ働きってこと」 「いいんですか?」 「いいよ。1時間なんてすぐだし。特に暇な時はね、あっという間だ」 「ありがとうございます」 口にしなかったケーキセットは彼がおごってくれた。 少しでも食べておけばよかった。飲んでおけばよかった。 「お礼なんていいよ。遅れた俺が悪いし」 「今日、お店に入る日じゃなかったのですか?」 恐る恐る聞いてみた。 彼はなんと答えるのだろう? できたら……。 来週と間違っていたとか言って欲しい。 遅れたのは、急用ができて間にあわなかったといって欲しい。 私の期待とは裏腹に彼は残酷な事実を告げた。 「ああ……。ごめんな。嘘言って。まさか……来ているとは思わなかった」 胸が痛くなる。 やっぱりそうだったんだ。 そうじゃないかって思っていた。 ある程度覚悟はできていたけど、面と向かって言われると物凄く辛い。 「いいえ、来てくれたのですから、それでいいです……」 涙が出そうになる。 泣いちゃいけない。私が泣いたら、彼が困るから。 私は涙をぐっとこらえた。 「この後、俺、仕事だから余り時間無いんだ。今日は悪かった。改めて日を変えて誘うよ。……そういえば、名前聞いてなかったな」 彼は酷い事をしたと悔やんでいるようだった。 取り次ぐろうとして優しい言葉をかけているのか、それとも、落ち込んでいる私を元気付けてくれようとしてくれているのか。 普段なら前者だと思う。でも……。 後者をとった。 彼は酷い人だと思いたくない。 名前は知っている。名札に「tetsuya」って書いていたから。 「俺は、ヤマサキ、テツヤ。単純明快な名前だろう?」 「そんなことないです。とても覚えやすいと思います」 「覚えやすいから、単純明快なんだよ」 彼は楽しそうに笑った。 確かに、彼の言う通りだ。 覚えやすいのは単純明快だからだ。 でも、私にはその七文字がまるで初めて聞く美しい言葉のようだった。 私は繰り返した。 ヤマサキテツヤ。ヤマサキテツヤ。ヤマサキテツヤ。 この先、私は何度も胸の中でその名を呟くのだろう。 「名前の由来はさらに笑うんだ。親父が何日も徹夜して考えたから、テツヤなんだと」 「え? 漢字も徹夜って書くんですか?」 一瞬彼は何を言われたのか理解できていない表情をした後、あぁと笑った。 「テツは徹夜の徹だけど、ヤは流石に違う」 「ご、ごめんなさい」 気を悪くしたかな……。 恥ずかしくて、頭がカーッとなった。 「なりって字書くんだ」 彼は空に「也」をゆっくりと描いた。 ヤマサキは山崎だろう。 テツは徹。ヤは也。 山崎徹也。 私はしっかりと覚えた。 「で、君は?」 私は一息ついてから告げた。 昔から自己紹介は苦手なので緊張した。 名前言うのって恥ずかしい。 由佳っていったら、皆意外だねっていうから……。 私はどうやら、由佳っていう名前には相応しくない女の子らしい。 「高名由佳です」 「へぇ、俺の親戚にもユカって子いるよ。字は理由の由に香るだけど」 「由は一緒だけど、カは違う。カは佳作の佳なの」 「佳肴有りと雖も食せざればその味いを知らず、か」 「? どう言う意味ですか? 」 まるでわからない私に彼は微笑んだ。 「さぁ、何だろうね」 一人楽しそうに笑って、教えてくれる様子は無かった。 「友達からは何て呼ばれてるの? 俺もそれにあわせるよ」 友達。 友達って呼べるほど親しい子はいないし、私を友達だと思っている子もいないので、皆「高名さん」って呼ぶ。 私を「由佳ちゃん」って呼んでくれるのはお母さんとお父さん。近所の人だけ。 彼には「由佳ちゃん」って呼んでもらいたい。 だから……。 ちょっと嘘ついてもいいよね。嘘つくの平気なのに、この時だけは胸が痛んだ。 「由佳ちゃん……」 「そう、じゃ、俺も由佳ちゃんって呼ばせてもらうよ」 彼はすんなりと私の名前を呼んでくれた。 親戚に同じ名前の子がいるからかもしれないけど。 彼に由佳ちゃんと言われて、なんだかくすぐったくって、恥ずかしい。 「私は何て呼べばいいですか?」 「徹也でいいよ。そう呼ばれているから」 「わかりました」 徹也さん。 上手く声に出して言えるだろうか? 小さな公園に辿り着いた。 ブランコには小さな子どもが元気よくこいでいる。 私たちは空いているベンチに腰掛けた。 徹也さんは腕時計を見た。この後、仕事があると言っていた。時間がせまっているのかもしれない。 無理をして一緒にいてくれているのだろうか? 「あの……、もうすぐお仕事に行かなきゃいけない時間なら、私のこと構わず行ってください」 「ありがとう。気にかけて。もう少し時間あるから。……そうだ、来週の日曜空いてる?」 「え、は、はい」 突然の誘いに私は驚いた。 もしかして、来週の日曜日会ってくれるんだろうか? 余り期待しちゃいけない。もしかして、違うかもしれないし。 「じゃ、どこか行こうか? 土曜の仕事の具合でまだはっきりとした時間いえないけど。由佳ちゃんは携帯持ってる?」 由佳ちゃんって呼ばれた。嬉しくて顔が思わず緩んでしまう。 「はい。持ってます」 「じゃ、携帯のメルアド教えてくれない。俺も教えるから……」 徹也さんはそう言って、ズボンの後ろに手をやった。 「ん? 車に置き忘れたみたいだ」 その時、私はがっくりした顔をしたのだろう。徹也さんは心配するなと言うように笑った。 「アドレスは覚えてるから。書くもの持っている?」 「持ってます」 私は鞄の中から手帳を取り出し、ボールペンと白紙のページを開けて徹也さんに渡した。 徹也さんは慣れたようにすらすらと書いた。 「はい」 書き終えると私に手渡した。 すごく綺麗な字だった。 男の子の字は、がさつで読みにくい字ばかりという印象があった。 「私、メール送りますから、驚かないで下さいね」 「わかった」 明日、必ずメールしよう。 今晩、何て送ろうか考えよう。 私、とても楽しくて、ドキドキしてる。 |