I Wanna Cry
【 10.彼女の名 】
閑静な住宅街の一軒家。 しゃれた造りの洋館。 そこに彼女が住んでいる。 俺は家の前に車を止めた。 家には灯り一つついていない――誰もいないのだ。 「じゃ、また電話するわ」 彼女は車を出た。 彼女が家に入った後、俺はアクセルを踏んだ。 数年前。 彼女が俺の狭く古いアパートに泊まりはじめた頃、ねぇと眉を寄せ、尋ねた。 ―― もう少し、広い部屋に引越ししない? ―― 今の生活でギリギリ精一杯なんだぜ? 贅沢なんて言ってられねぇよ。 ―― だって、狭いんだもん。ベッドからすぐ落っこっちゃうし……。 ―― んなこと、言ったってなぁ……。 俺はアルバイト情報をめくった。 どれもこれも時給が安すぎて、少し広いアパートに引っ越しても、家賃を支払えない。 ―― バイトの掛け持ちはきついしな……。 居酒屋のバイトの他にもう一つとなると、体力的にも限界がある。 こうなったら、時給のいいバイトにかえるしかない。 俺はページをめくった。時給のいいバイトは、お水商売だった。 ―― やっぱ、お水の時給が一番だな……。 ―― ちょっと、徹也、ホストするの? ―― それでもしなきゃ、広いアパートに住めねぇよ。 ―― ……ホストはだめ。 またでたとうんざりため息ついた。 本当に我侭ばかり言う。 苦労知らずの、多少の我侭も許され、愛されて育ったお嬢さんだからかもしれない。 ―― お前なぁ……。わがまま言うなよ。お前が広いところがいいって言うから。 ―― でも、ホストは嫌。絶対嫌。他の女に徹也が愛想良く笑うのみたくない。触られたくない。 ―― 触られんのかな……? やはり……。 そんな仕事ばかりじゃないとは思うが……。 ―― ホストは絶対嫌。ここで我慢するから。でもね……。 ―― 何? 次は何の要求だろう。 途方にくれるような我侭だけは勘弁してもらいたい。 ―― ベッドはもう少し大きめにして。 ―― お前は……。 俺は溜息をついた。 お前の言っていることめちゃくちゃじゃないか……。 愛は無限だが、我慢には限界がある。 ―― ベッド大きくしたらよけいに狭くなるじゃないか。 ―― じゃ、布団にしよう。落ちる心配ないしね? ―― お前ってヤツは……。自分のことばっかりだな。 ―― ……だって……。 彼女はむすりとふくれて視線を落とした。 俺が悪かったって言わなきゃいけないような仕草をするなよ。 俺もこいつにどこまで甘いんだろう。 負けた。完敗だ。 こいつは、惚れた弱みを上手く利用する。 ―― わかったよ。布団にする。 ―― ありがとう。徹也。 彼女は抱きついた。 彼女のわがままにうんざりしながらも、許した。 用済みのベッドを誰かに譲ろうとしたが、「お前らがやってたベッドなんぞで寝たかねーよ」と皆にことごとく断られ、粗大ゴミとして出した。 その日から、ベッドから布団にかわり、狭い部屋は少し広くなった。 ―― やっぱり、布団の方がいいよね。片付ければ部屋も広くなるし。 ―― それに、落っこちないしな。 ―― もぉ。私の寝相悪いっていいたいの? ―― 悪いよ。お前。何度俺、お前に蹴られて目が覚めたことか。 ―― うそ……。 ―― 今晩からはぐっすり眠れそうだ。 ―― ひどい、徹也……。 じろりと睨みつけたが、やがてぷっと吹き出し、楽しそうに笑い声を上げた。 彼女が現在住んでいる家とは比べものにならないくらい小さく古い部屋だったが、笑い声の絶えない暖かい場所だった。 貧乏も楽しんでいたそんな昔の話。 家に戻ってきた俺は、ソファに座りぼんやりと乱れたベッドを眺めていた。 彼女を部屋で抱いた後のベッドで眠る気にはなれず、そのままソファに横になった。 ****************** 目が覚めた時、すっかり日は昇りきっていた。 思ったより寝過ごした。時計を見上げると、11時5分前だった。 昼まで寝ているとは、相当疲れているのか……? 俺はゆっくりと起きあがり、バスルームに入り軽くシャワーを浴びた。 再び、ソファに腰掛けぼんやりとしていた。 側にあったフランスパンを手でちぎり、かたい外側を食べる気にはなれなかったので、中だけをくりぬいて食べた。 数日間溜め込んでいた衣類を洗うことにした。 俺は見もしないテレビをつけた。 「今日は清々しい日曜日です」 女性キャスターが告げた。 そうか、今日は日曜か……。 カレンダー通りの休みでない職種につくと、休日の感覚が普通の人と違う。 皆が羽を広げてくつろいでいる日曜日に働いて、仕事のある平日に休む。 ある意味、贅沢かもしれないが、多くの仲間達とは休日があわないので、つるむのは自然と店の関係者となる。 日曜。 俺は何か約束していたような気がする……。 何だっただろう? 思い出せなかったが、テレビに制服姿の女子高生が映り、思い出した。 そうだ。あの子と、約束してたんだ。 名前も知らない女の子。 口からでまかせを言って、別れたあの子。 俺は時計を見た。1時になっていた。 喫茶店までは車で約15分。 待ち合わせの時間には間に合う。 俺は行く気など無かった。 高校生の相手などする気にもなれない。 最低10、最高12は違う子どもと話して何が楽しんだろう。 俺はソファに横になった。 ****************** ―― 山崎君。 講義のある教室に移動し席に座っていた俺に同級生の女の子―― 加藤が話し掛けてきた。 ―― この前、講義休んでたでしょう? その時のノート貸してあげる。 ―― あぁ、ありがと。 俺はノートを受け取った。 加藤とは同じサークル仲間で、同じ哲学の講義を受けている。 じゃあと加藤は教室を出て行った。 俺はノートをめくった。その中に、手紙が入っていた。 封をあけると、「明日、駅前の喫茶店で待ってます」と書かれていた。 駅前の喫茶店はサークルが始まる前の時間つぶしによく利用する。 加藤が俺を呼び出した理由はすぐわかった。 行くべきなのだろうか……? ―― 徹也。 手を振り彼女が教室に入ってきた。 俺はあわてて手紙をポケットの中に押し込んだ。 ―― 昼、外で食べない? 今日、ちょっとリッチだからおごるよ。 うふふと彼女は笑った。 彼女とは、つきあい始めたばかりだった。 内緒にするつもりはないが、まだ、友達には言っていない。 加藤はまだ俺が彼女とつきあっていることを知らない。 ―― でね、明日、映画観に行かない? 明日、待っていると書いてあった。一瞬加藤の顔がよぎったが、目の前で楽しそうにしている付き合いはじめて間もない彼女を断ってまで行くことはないだろう。 ―― それもおごり? ―― ん〜、徹也次第かな? ―― なんだよ。何をー、俺に期待してんだ? ―― ふふふ。何でしょうね〜。 彼女は俺の肩にもたれた。 ―― もったいつけないで、言えよ。 彼女の小さな耳元に向かって囁いた。 俺の息がかかったのか、くすぐったそうに彼女は肩を上げた。 ―― 女の子にそんなこと言わせちゃダメ。 ―― わかったよ。 俺は彼女の手に手を重ねた。指と指を絡めたまま講義を受けた。 教授が背を向けてホワイトボードに書き始めた時、小声で隣りに座る彼女に話し掛けた。 ―― なぁ、明日の2限目、お前確か加藤と同じ講義だよな。 ―― そうだけど? ―― ノート返しておいてくれないか? ―― いいけど……。徹也が借りたんでしょう? ―― やんなきゃならないことあるから。 ―― わかった。 納得いかないみたいだったが、彼女は頷いた。 俺に貸したノートが彼女から手渡される。 加藤は、それとなく勘付くだろう。 俺とこいつがつきあっていることを。 それとなくわからせたらいい……。 明日、加藤は俺を待つことなく帰るだろう……。 彼女と初めてデートをし、帰りに彼女の期待していると思われる――キスをしようと顔を近づけたが、まだ早いよと俺の腕の中からするりと逃げ出した。 ―― 明日のお昼は徹也のおごりよ。 ―― 安いところにしてくれよ。 ―― んー、どうしようかな〜。徹也、手早すぎだし。 ―― 未遂に終わったんだから、勘弁してくれよ。 ―― しょうがないから、ファーストフードにしてあげる。 じゃあねと手を振り彼女は自宅へ入っていった。 俺は余韻に浸りながらアパートへと帰った。 ―― 徹也、加藤さんとの約束破ったんだってね。彼女泣いてたよ。 翌日、最後の講義が終わり、帰ろうとした俺に彼女は告げた。 何故、彼女が知っているのだろう。尋ねる前に、責めてきた。 ―― どうして、行ってあげなかったの? ―― 行って、俺はお前とつきあってるって言えばよかったのか? ―― それも辛いけど、一人期待と不安の中で待ち続ける方がよっぽど辛いよ。 彼女の瞳から涙が零れ落ちた。俺は彼女の涙を拭った。 ―― ごめん。万里子……。 ―― 謝る相手が違うよ。私じゃなくて加藤さんでしょう? そうだけど……。 一番傷付いているのは万里子のように思えた。 ****************** 再び目が覚めた。時計を見ると、3時を回っていた。 忘れていた昔の出来事が夢にでてきた。 俺は、あの時と同じことをしようとしている。 俺を待ち続けた加藤。 あの子も同じ目にあわせてしまう。 同じ過ちを繰り返すのか……。 俺は家を飛び出した。車を飛ばせば3時30分には着くはず。 あの子はそれまで待っているのだろうか……。 店に着き、いてくれと祈りながら店内を見渡した。 そして、俺は見つけた。 二人用の席に一人で座っている少女。 うつむいたままじっとしている。 喧噪の中、そこだけが暗かった。 |