I Wanna Cry


【 18.虚ろな空間 】

 バタンと玄関のドアが閉まると同時に走り去る足音がやけに耳に響いた。
 小雨が降る中を由佳ちゃんは帰った。

 由佳ちゃんは、泣いているのだろう。
 さようならと告げた声は震えていた。
 15歳の少女の思いがけない一言に胸を貫かれた。
 笑いかける余裕さえも失い、感情的になりそうな自分を抑えるのに精一杯だった。
 雨の中、帰ると言った彼女に傘を渡すこともできなかった。

「お部屋生きてないです……か」

 由佳ちゃんのセリフを呟き、苦笑した。

 確かに、生きていない部屋だ。
 部屋が生きていないのは、住んでいる俺が生きていないからだ。

 万里子の結婚を知ってから、逃げるように引越しをした。
 何もかも忘れて、新しい暮らしをはじめるつもりだった。
 環境が変われば、気持ちも変わる。誰かと出会い、再び深く愛しあえる人と巡りあうだろうと前向きになって――いや、前向きになろうとしていた。
 ここで暮し始めても、頭から万里子が忘れられずにいた。

 ダンボールを開ける度に、万里子の思い出が蘇った。
 全ての持ち物に万里子がいた。
 万里子を思い出して微笑んだ後に、胸内に広がる苦みに耐え切れず、引っ越す時に全て捨ててくるべきだったと後悔した。
 今も押し入れには開封されないまま眠っているダンボールが幾つかある。
 心機一転やり直すつもりが、何一つ変われない。
 俺が万里子を忘れたくないのか、それとも、忘れられるほどの人に巡りあっていないのか。もはや、どうでもよくなってきた。
 生を見出せず、虚ろなまま生きていた俺の前に再び万里子が現れた。
 夫と身代わりだとわかっていながらも拒まずに受け入れたのは、俺を捨てたように万里子を同じようにあわせたかったからだ。
 それなのに……。
 俺は万里子を再び愛し始めている。
 本気で俺があいつと別れろと言っても、万里子は別れないだろう。
 夫が別の女を愛していても、別れない限り安定した生活が保障されるから、万里子は別れないのではない。
 万里子は夫を愛している。
 俺に抱かれながらも、万里子は夫の夢見ている。
 悔しい。だが、決して万里子には悟らせない。感じさせない。
 捨てられた女を再び愛した男なんて、情けなさ過ぎる。

 メール受信の着信音が鳴った。
 由佳ちゃんからだろうと思いながら、携帯電話を手に取ると、送信者は万里子だった。

 件名:万里子です。

 ―― 徹也、水曜日空いていたら食事に行かない? メールください。

 万里子には今日休みだとは伝えていない。
 俺は仕事中一切携帯電話を見ない。電話をかけるのは、仕事が終わってからの深夜だ。
 いくら夫との関係が冷え切っているとはいえ、他の男に電話をしない。
 万里子との連絡はほとんどメールで、夫がいない時と俺が仕事していない時間を見計らって電話をかけてくる。
 俺は万里子の携帯に電話をかけた。メールを送信したばかりなのだから、夫はいないのだろう。4回目の呼び出し音の後、「はい」と万里子が出た。

「俺。メール読んだ」
「今日、休みなの?」

 それだったら言ってくれたらよかったのにと呟いた。
 万里子の呟きには応えなかった。

「今晩空いてるか?」
「ええ、空いているわ。……早く帰るけど、それでもいい?」

 今夜は、遅くなる前に夫が帰ってくるのだろう。
 それまでには家に帰りたいらしい。
 俺と過ごすよりも。
 痛む胸をこらえながら、俺は告げた。

「構わない」
「じゃ、行きたい店があるの。予約しておくわ。7時にいつもの場所で」

 俺は時計を見上げ、現在の時間―― 6時5分、時間通り、間に合うと確認してから告げた。

「わかった」

 電話を切り、出掛けるまでの10数分間、時間つぶしにテレビをつけた。
 地方ニュースは雨に濡れたこの街を映していた。
 傘を持っていない数人の人々が横断歩道を走って渡る。
 由佳ちゃんも彼らと同じように、走って帰ったのだろう。
 頬に涙を流しながら。
 これでよかったんだ。
 雨降るの中、傘一つ渡すこともできない気の利かない最低な男のことなど記憶から抹消するだろう。

「高名由佳」のアドレスを消そうとした手が止まった。
 何故と自身に問いかけながらも、答えを出そうとはしなかった。
 まさか、12歳も年下の少女を気になりかけているなんて思いたくも無かった。
 15歳の、まだ何も知らない真っ白な少女が気になるのは、もう戻れない懐かしい時代を時々思い出したいからかもしれない。

 ただ、それだけのこと。
 それだけの、こと。
 それ以外考えられない。
 それ以上は考えない方がいい。


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