I Wanna Cry
【 20.ハンカチ 】
「雨が降っているから、駅近くにしたの」 駅前ビル内に最近できたばかりの創作イタリア料理店は若いカップルでにぎわっていた。 隣りの大学生風カップルの女の子の鞄から丸めた情報誌がはみ出ている。 その雑誌に店の情報が載っていたのだろう。 多分、同じ雑誌を万里子も読んだのだろう。 万里子は昔から新スポットを探すのが好きだった。 ファッション雑誌は立ち読みするくせに、同じような情報誌は何冊も買っていた。 万里子はあらかじめ行く店を決めていないと落ち着かない。 行き当たりばったりで店を選んだが満員で入れず、店を捜し歩くのは大ッ嫌いなのだ。 ****************** ―― だって、時間がもったいないじゃない? 万里子は口を尖らせた。 ―― ぶらぶら歩きながら捜すのも楽しいじゃないか。 ―― 時間減っちゃうじゃない。 ―― 何の? 俺がにたにた笑いながら聞くと、もぉ! と俺の腕を叩いた。 ―― 何で、そう、徹也はいやらしいことばかり考えるわけ? ―― 俺がそんなこと考えていると思っているお前がいやらしんだ。 と俺が言い終えると否や、万里子は脇腹にエルボくらわし、一人ですたすたと歩き始めた。 ―― 万里子、欲求があるなら、素直に言った方がいいぜ。 腹をおさえながら駆けより、隣りに並んだ。ちらりと横目で万里子を見ると、眉間に深いシワを作っていた。 ―― 男は乙女心を感じとるものなのよ。 ―― 乙女ねぇ……。 深い意味は無い。聞きなれない言葉を思わず口にしてしまっただけなのだが、万里子にはかちんときたらしい。今度は思いっきり腕をつねった。 ―― いててて。 ―― 乙女じゃないくせにとか言うんでしょう! ―― だからー、言ってねぇだろう? ―― うそ! 徹也はわざと言ってるわ。 こうなったら、もう、お手上げだ。俺が何をどう言っても、万里子は俺の言う事を信じない。自分の考えが正しく、それ以外は認めない。俺が折れるしかないのだ。 万里子の機嫌を早く直したくて、俺が悪かったと言えば、プライドがないと言われるし。本当に、難しい女だ。 だけど……。 これでいい。 万里子が側にいてくれるなら。 ―― まぁ、普段が普段だからしょうがないか……。 ―― たまには真面目になりなさい。 ―― はい。はい。んじゃ、もう遅いし、送るよ。 食事した後、そのままさよならをするカップルがいるだろうか。 夜は始ったばかりだというのに。 万里子はジロリと睨みつける。 女心―― いや、乙女心がわからない男だ。あるいは真面目になれと言った意味が違うとでも言いたいようだ。 わかっている。 お前がそういう反応するだろうと思ったから、わざと言ったんだ。 ―― いじわるね。 ―― 今にはじまったことじゃないだろう? してやられたと悔しそうにそっぽ向いた。 時々、立場が逆になる。 いつも一歩優位にたっている万里子を―― いや、違う。 いつも万里子に優位にたたせるように俺が一歩ひいているのだ。 恋をし、別れを経験した俺には余裕があったのだ。 女子校育ちで、男と接する機会が無かった万里子は、理想の男性像を膨らませていたが、実際同じ年頃の男とどう接していいのかわからず、好奇心よりも先に警戒心を強めていた。 本当は怖いくせに、虚勢を張る万里子が俺にはいじらしくて仕方なかった。 ―― 泊まっていく? ―― どこに泊まるの? 俯いた万里子は尋ねた。 勝気な万里子とは思えないくらいしおらしい。 学校の誰も知らない。俺だけが知っている万里子の姿を皆が知ったら驚くだろう。 ―― 給料日前だから俺んちにしてくれる? 万里子はコクリと頷いた。 ―― タバコ、吸わないなら。 ****************** 「交通便は最高、味はまぁまぁ、景色は最悪」 万里子は店を出、即座に評価した。どうやら、二度と行かないと決めたようだ。 同業者として、このような判断を下されると正直言って辛い。 雰囲気は悪くない。料理の値段からして、あの味は妥当だ。 万里子のように舌の肥えた人からしてみれば、満足いくものではないだろうが。 「せっかく食べるのよ。おいしいものがいいじゃない」 確かに言う通りだが。 「後、店員の聞きなおしが多い」 「まだ慣れていないんだ。しょうがないだろう」 「新人だから許してもらえると甘えているのが嫌」 「相変らず、厳しいな」 「そう?」 挑戦的な目をして応えた。 昔なら―― つきあっていた頃なら、一言二言言って、万里子をぎゃふんと言わせてやったものだが、今はそんな気になれない。 感情が昂ぶると全く別人になる。 別人の万里子は俺を自己嫌悪に陥らせる。 誰が、彼女を変えさせたのか。 原因の一つはきっと俺。 別れを告げられた時、追いかけなかった。追いかけていたら、違った未来があったのだろう。 もし、それが出来ていたら、再会しようと思わなかった。 恋の幕を降ろせなかったから、こうなってしまった。 「水曜日楽しみね」 万里子の夫は火曜日から木曜日まで出張だという。 「久しぶりに、徹也の家に泊まろうかしら」 「水曜にか?」 俺の定休日は水曜日だ。 火曜の夜―― 正確に言えば水曜日になってから帰宅する。 火曜に泊まりにきても、一緒に食事もできないのなら、休日に泊まりにくる方がいい。 「ええ、水曜の昼迎えにきてくれる? その後、デパートに行って友達の出産祝い買いたいの」 「わかった」 俺が返事をすると、万里子は嬉しそうに笑った。 駅改札口に着き、ねぇと万里子はちらりと見上げて尋ねた。 「厄介な事に巻き込まれたの?」 「え?」 突拍子も無いことを言われて驚いた。 何故と聞く前に万里子が応えた。 「……なんとなくね、落ち込んでたみたいだったから」 鞭で打たれたような痛みが走る。 なぜ、わかるんだ。 俺自身忘れていたと言うのに。 「……別に、たいしたことじゃねぇよ」 見抜かれ動揺した俺に万里子は勘付いていたが、それ以上は聞いてこなかった。 昔なら、聞き出すまで聞いてきたのに……。 年をとり、少しずつこの世で生きていくしくみがわかってきた。 己自身の手で責任をとらなくてはいけない。 深追いはしてはいけない。潮時をわかっているはず。 なのに、このような関係を続けるのか。 ガキの頃なら、不倫も浮気も許されないことだと思っていた。今はそれも仕方ないと思っている。 子どもが抵抗し歯向かって生きていくのものなら、大人は流され生きていくものなのかもしれない。 「……そう、だったらいいけど。じゃ」 手を振り、改札口に入ろうとする万里子の名を呼んだ。 「何?」 ゆっくりと振り返る。言おうとした言葉を俺は飲みこんだ。 「別に……、何でもない」 万里子は微笑み、ホームへと向かった。 俺は人込みの中へ消えていく万里子をいつまでも見詰めていた。 言えなかった。 ―― 別れちまえよ。 再会した頃の俺なら、万里子を苦しめる為に言っていたかもしれない。 今は言えない。 ****************** 久しぶりに午前前に寝たせいだろうか。朝早く目が覚めた。 7時3分。 昼間、働いている人からすると、7時起きは普通かなのだろうか、それとも少し遅いのだろうか。俺の場合、7時は眠りの中だ。 再び眠りについてもよかったのだが、ここ何日か洗濯物を溜め込んでいることに気付いた。 しょうがねぇから、洗濯でもすっか……。 朝食をとりながら、洗濯機を回した。 焼いた食パンをかじりながら、部屋をぼんやり眺めていると、由佳ちゃんのセリフを思い出した。 ―― でも……お部屋生きてないです……。 このアパートに引越ししてから、まともに掃除した記憶が無い。 由佳ちゃんに言われたからではないが、改めて部屋を見渡すと汚さが目についた。今まで気にしたことはなかったが、気付くといてもたってもいられなくなる。 埃をかぶった本棚を整理し始めた。 もう読まない文庫本や雑誌を床の上に放り投げていく。本棚のほとんどがいらないものばかりだった。 俺の家は、がらくたばかりだったのか? ゴミだけと生活していたのかと思うとうんざりした。 ゴミを一まとめにし終えると、疲れてきたので、ソファに寝転がって、テレビをつけた。 奥様好みのワイドショーだった。1時間内に、凶悪殺人事件やら、ほのぼのとした幼稚園の話、アイドルの密会現場と目まぐるしく変わった。話題ごとに表情が変わるコメンデーターに感心していた。何もかも番組内に詰め込みすぎて逆に薄っぺらな感じがした。 姿勢を変えると、ソファの下から一枚のハンカチを発見した。 見覚えのある熊のハンカチ。 由佳ちゃんのハンカチだ。 確か、由佳ちゃんはバスタオルで濡れた体を拭いた後、このあたりに座っていた。 あの日、他愛ない話をしていた。 由佳ちゃんの純朴な少女の雰囲気は、大人を和ませる。 彼女の可愛らしさは、同年代の男には物足りないだろう。 高校時代、俺が苦手としていた女の子のタイプだった。 健気で、ちょっとしたことですぐに壊れてしまいそうな女の子。 守ってやりたい、リードしたい男なら由佳ちゃんのような女の子はいいかもしれないが、何もかも頼られるのは俺には重く苦しかった。 時にはけんかをしながらも、同じ時の中でわかちあえる子が好きだった。 携帯のメール着信音が鳴った。 誰だろうとメールを開いてみると、由佳ちゃんからだった。 件名:ごめんなさい ―― ごめんなさい。昨日は変なこと言ってごめんなさい。 気にすることなんてない。 謝らなければいけないのは、俺だ。 何気ない一言が的を射ていたからとはいえ、雨の中、濡れて帰らせてしまうようなことをしたのは俺なのだ。 それなのに、由佳ちゃんは俺を責めることはなく、自分を責めた。 数多いる男の中、何故、俺を選んだのか。 12も年上の、素性も知れない男を。 何故、俺なのかと問い掛けても、由佳ちゃん自身答えは、見付からないだろう。 俺だってわかっている。 恋はしたくてもできるものじゃない。 突然やってくるものだ。 身近なところから人と出会い、人と人とのつながりで、また別の人と出会う。 環境が変わり、また出会う。何度も出会いと別れを繰り返す。 人は愛する人を探すために旅をしているのかもしれない。 俺のたった一つのことで、由佳ちゃんは一喜一憂する。 他人の人生に素性も知れない男が心の奥深く踏み込んでいる。 俺は上手く由佳ちゃんの恋を終わらせてあげることしかない考えていない。 新しい恋ができるように、いい恋ができるように。 件名:Re:ごめんなさい ―― 大人気ない事をした。悪かった。由佳ちゃん、ハンカチ忘れていっただろう? 4時15分までなら家にいるから、時間があればいつでもいい、取りにおいで。 送信しようとした手を止めた。 水曜日は万里子と約束をしている。 俺は文章を付け足した。 ―― 水曜日はダメだけど。 文章を読み直してから、俺は送信した。 送信しながら、何をやっているのだろうと自問した。 上手く終わらせる為とはいえ、心にも無いことを書いて由佳ちゃんを喜ばせてどうするんだ。かわいそうなのは由佳ちゃんじゃないか。 由佳ちゃんからの返信がすぐにきた。 メールが好きな女の子だから返信が早いのか。それとも、俺からのメールを待っていたからか。 件名:わかりました ―― わかりました。明日行きます。 件名:Re:わかりました ―― わかった。明日な。 俺は携帯を置いた。 胸に痛みが走った。 うわべだけの優しさで、最も残酷なことをしている。 俺がどんなに卑怯な男か知らずに、偽りの俺を本当だと誤解し続けるのかもしれない。 本当の俺を知ったら、由佳ちゃんはどう思うのだろうか。 一度別れた女を再び愛し始めたマヌケな男を。 相手をしてもらいたいのは俺の方かもしれない。 再び万里子を失った時の身代わりが欲しい。 ならば、後腐れの無い女を選べばいいはず。 だが、何故、15歳の少女なのだろう。 こればかりはわからなかった。 |