I Wanna Cry


【 1.駅 】

 閉店時間となり、テーブルを拭いていると、バイトの女の子――美和ちゃんが遠慮しがちに話し掛けてきた。

「今度の休み、友達とバーベキューするんです。よかったら来ませんか?」

 どうすると食器を洗っている司に視線を向けると、彼は調子よくにこにこ笑いながら応えた。

「いいよ〜。俺、そ〜いうの、大好きだし〜」
「後で詳細連絡しますね」

 美和ちゃんが嬉しそうに笑って店を出て行った後、俺は司に冷たい視線を送った。

「何?」

 俺が何を言いたいのかわかっていながら笑う。

「罪なことするなよ」

 忠告すると、司はにんまり笑った。

「徹也ほどじゃないけどね〜」

 ニコニコ笑いながら痛いところをついてくる。

「……もう終わった」
「へぇ〜、どっちと?」
「どっちって?」

 万里子のことか由佳ちゃんのことか、どちらを聞いているのかわからなかったので、聞きなおした。

「不倫の方? それとも高校生?」

 そう言われると、自分が後ろめたい恋ばかりしているように聞こえた。

 司は万里子とよりを戻すことに反対していた。

 ―― 不毛。

 たった一言だけ言った。
 言葉数の少ない時ほど、司は怒っている。

 ―― お前は一度思いっきり泣いた方がいいんだよ。
 ―― 不倫なんて、周りの者皆不幸にすんだからな。

 司は傷付いた子どものような表情をしていた。
 その時、俺は思い出した。
 司の父親は妾宅に行ったまま帰ってこなくなったことを。
 俺が万里子との関係を断ち切れないでいると、司は辛い少年時代に引き戻されるのだろう。
 確かに、司の言う通り、周りを不幸にしている。

「好きな女がいると言った」

 わずかな情報だけで、司はわかったようだ。険しい表情はまだ万里子と続いているのを許せないようだった。

「……まぁ、高校生じゃ、きついな」

 片づけを終えた司は、水を止め、タオルで手を拭いた。レジに立ち、売り上げの計算を始めた。

 由佳ちゃんに、はっきりと言った。
 俺には好きな女がいると。
 告げた時の、由佳ちゃんを思い出した。
 この世の終わりを告げられたかのような表情に胸が痛んだ。
 あんな顔をされるくらいなら、振られた方がよっぽどましだ。自分の痛みだけなら耐えられる。 

 ―― 私の幸せを望んでくれるのなら、徹也さんのこと好きでいていですか? 私が納得するまで好きでいていいですか?

 そこまで想われる価値など俺にはない。
 恋を終わらせずにいた俺から諦めろと言えるはずもない。

******************

 数日後、約束の日がやってきた。
 晴れた青空が広がり、絶好のバーベキュー日和である。

 待ち合わせの時間だというのに、美和ちゃんの友達はまだ来ていなかった。
 どうやら少し遅れているらしい。彼女のメールに連絡が入った。

「ここで待っていてくださいね〜」

 うきうきしながら駅前まで友達を探しに行った。

「な〜んか、作戦立てるみたいだな」

 司は美和ちゃんの行動に何かピンときたらしい。
 こういう時の司の勘は外れたためしがない。

「俺、今晩、ヤバイかも〜」

 全く困っているようには聞こえない。むしろ、楽しんでいるようだ。

 どうやら、タチが悪いもう一つの顔がひょっこりでてきたようだ。
 
 こいつは、女と別れるのが上手い男なのだ。
 相手に恨まれず、甘い夢を見させる。
 彼女の思い出の中では、いつまでたっても、忘れられないいい男なのだ。

 ―― 俺って卑怯だからそういうこと簡単にできるわけ。器用そうに見えて、不器用なお前がうらやましいけど。

 司は自嘲するような薄笑いを浮かべたが、俺には引き際を知っているお前が羨ましかった。

 何気なく向かい側の道を見ると、男と歩いている万里子を見つけた。
 楽しげに見詰めあい、笑いながらしゃべっている。
 誰が見ても恋人同士あるいは夫婦に見えただろう。

 俺より少し年下の男は夫ではない。
 万里子の夫は、年上で、たるみかけた体型を気にしていない男だ。
 隣にいる男とは全く違うタイプだ。
 万里子は、夫でもない男と一緒にいる。

 あの夜。
 夫と別れようかと言った後、万里子に何があったのだ。
 それとも――。
 夫と別れようと本気で考え始めたきっかけとなったのは、その男なのか?

 俺ではなくて、そいつなのか?

「徹也さん、どうしたんですか? 笑ったりして」

 急に美和ちゃんに話し掛けられて俺は驚いた。
 いつの間にか彼女は友達を連れてきていた。
 言われて初めて俺は自分が笑っていることに気付いた。

「ちょっと、思い出し笑い」

 人間、大切な物を失った時、泣くのではなく笑うのだ。
 もう、笑うことしか残されていない。


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