不思議な気分だった。左肩から血液が流れ落ちているのにさほど痛さを感じない。初めてクルガを倒した達成感が上回っているせいだろうか。
クロトはクルガを見下ろした。嘴から舌を出したまま死に絶えている。命が己の中で消えていく瞬間を強く意識したのは初めてだった。
妖魔は半獣人にとっては大切な食料だ。だから、躊躇うことなく狩ってきた。
こいつにも、帰りを待つものがいるのだろうな。
そう考えてしまうと、狩りはできなくなる。だから、考えてはいけないとわかっているが。
ギンをくわえたワイルが音をたてずに降りてきた。あの高さから落ちてきたギンは驚いたのだろう。表情が固まっていた。地にギンを置くとワイルが話しかけてきた。
「よくやったな。クロト」
「……あんたの手助けがなきゃできなかった」
実際そうだ。ワイルがクルガの下半身を押さえ込んでいなければ、到底一人ではクルガを狩れなかった。
苦笑しながらこたえたクロトの側にギンは駆け寄り怪我をした左肩をなめた。
「痛くない?」
傷跡を見ながら、恐る恐るギンは尋ねる。
「……大丈夫だ」
クロトは綺麗に傷口をなめた。ついでに心配するなとギンの顔もなめてやった。
「お前が倒した妖魔だ。お前が初めに食べろ」
クロトは身を引き締め、横たわったクルガの厚い毛皮を裂いた。
たいまつを片手に持ち、サンソンは様子を見に行った。庭に落ちた妖魔を食べている黒豹が二匹いた。大きく精悍な黒豹はワイルという男に違いない。少し小ぶりな黒豹は年若いクロトだろう。
サンソンは辺りを見渡したが、セラという女性の姿はない。そして、メイレア姫の夫である銀色髪、紅い目の子どももいないようだ。
サンソンはゆっくりと近づく。一番大きな黒豹の耳だけが動いた。どうやら彼はサンソンが来ていることに気付いているようだ。
よく見てみると、白い小さな豹が妖魔に喰らいついていた。妖魔の肉は容易く噛み切れないようで、必死になってかぶりついている。白豹は視線を感じると、サンソンの方を振り返った。
たいまつの火だけでははっきりと見えなかったが、白い毛皮が血肉で真っ赤に染まっている。あどけない表情でやや首をかしげてサンソンを見た。
サンソンはよろめいた。たいまつを落としてしまいそうだったが、何とか免れた。
あれが、姫の夫。
胃がむかむかしてくる。サンソンは壁に手をついて吐いた。何度も何度も繰り返し吐き続ける。
胃の中の物を全て吐き出しても、吐き気がおさまらない。
涙と鼻水で顔中が汚れていく。己が吐き出したものの臭いに耐えられず、再び嘔吐した。むせ返りながら地を這い蹲る。
サンソンは口から流れ落ちる胃液を袖口で拭った。
気持ちが悪い。
幼い獣が、人を食い殺す妖魔の肉を引きちぎっている。
顔を歪めて必死になって食いついている。
白い小さな獣の、人となった姿をサンソンは思い出すと、全身が激しい怒りに染まっていく。
頼りなげな、強い風が吹けば倒れてしまいそうな印象の子どもの姿は偽りか。
儚げな振りをして、俺たちを騙していたのか?
姫を騙しているのか?
メイレア姫と血に汚れたギンが向き合って笑っている。血に濡れた手でメイレア姫に触れようとする。
俺の姫に触れるな。お前のような汚らわしい獣が姫に触れるな。
妖魔を貪る獣が俺の姫の夫。
あのような汚らわしい獣が姫の夫とは認めない。
汚らわしい獣から姫を救い出すのだ。
姫を救い出せ。
あの白い化け物を殺せ。
俺が姫を助け出すんだ。
夜明けと共に、東へ向かって飛んでいる妖魔の群れを情報屋はとらえた。
五頭のギストが整列して飛んでいる。弱いギストは用心深い。天敵である半獣人が近くにいないか確かめながら羽ばたいていた。
情報屋は城周辺にテントを張っている半獣人たちに向かって、半獣人だけしか聞こえない声で吠えた。
情報屋の鳴き声を聞きつけた半獣人たちは狩りの支度を始めた。
久しぶりの獲物だ、腕がなると嬉々とした。
だが、間をおいて、情報屋が吠えた声に、一瞬止まった。何をいっているのか理解できなかった。
――警戒しろ。ギストが大群でやってくる。
その数はと問いかけるが、こたえはない。
逃げろとただ繰り返すだけ。
ただならぬ気配に半獣人はテントから出た。
五頭のギストの後、黒い点が見えた。
何かと目を凝らしているうちに、黒い点が想像を絶する程のおびただしい数の妖魔の群れだと知った半獣人は慌てて家の中へ戻った。
空一面に狼と猿の二つの頭を持ったギストの大群がうごめいている。普段は大人しい妖魔だが、大群になると凶暴化する。
あれだけの数を率いている群れを見たことがない。もしかすると、あの中には妖魔の王と呼ばれるものがいるのかもしれない。
背筋がぞっとした。
半獣人たちは急いで、逃げ出す準備を始めた。
長老の命はここから直ちに逃げよ、だった。長老の補佐役である中年の男性が先導し、後を続く。影にもぐりこみ、影の中で移動する者が大半であったが、まだ影から影へと跳び移れない幼い子を持つ親たちは、黒豹姿に変わり、子どもをくわえて走り出していた。怪我や病人のいる家庭は、複数の者に守られながら、安全な道を選び旅立つ。
逃げ出す半獣人たちとは逆に城へと向かおうとするラーの肩をバシューは掴んだ。
「……逃げるぞ」
「ギンを放っておいていけと?」
ラーはキッとにらみつけた。
火を消さずに出て行ったのだろう。真っ赤な炎がテントを飲み込んでいた。火の粉がバシューに背に降りかかる。
「あなた、それでもギンの親なの? ギンにもしものことがあったら……私はここを出るわ」
「……一人で暮らすのか? 荒野で。そうしたいなら、そうすればいい」
突き放したバシューの言葉にラーは動揺した。涙がはらはらと流れ落ちていく。
「あなたはいいの? ギンを失っても、ここで暮らせるの?」
「俺は少しでも生きたい。だから、生き残れる可能性がある道を選んだ。狩りをできなくなった情けない体でも、ここにいれば何とか食っていける。役立たずと罵られようが、我慢すればいい。お前と共にギンの成長を見ていられるのなら、それでいいんだ。俺だって、ギンを助けに行きたい。だが、俺には無理だ。足手まといで、迷惑をかける。俺は城にいる奴らがギンを救ってくれると信じる」
だから、お前も信じろというのだろうか。
危険だとわかっていても、ギンの側に行きたい。ラーには聞こえてくる。お母さんと泣き叫ぶギンの声が。紅い目を真っ赤にして泣いているギンの姿が浮かぶ。
「ワイルやセラや、クロトがギンを守ってくれる保障はないわ」
「行きたければいけばいい。俺は皆の後を追う」
バシューは黒豹姿に変わり、荒野を歩いていく。先に逃げ出した仲間たちには到底追いつけないだろう。彼はあれ以上早く歩けないのだ。狩りに失敗し、傷を負った後ろ右足の傷が痛々しい。
凶暴化したギストの群れは必ずバシューを見つけ、攻撃をしかけてくる。
狩りをできなくなったバシューはろくに抵抗もできず、ギストたちになぶり殺されるだろう。
荒野に黒豹の屍が横たわる。血肉は食べつくされ、骨だけが残る。
結婚しようといわれたのは18の時だった。長老の息子だから少しは楽に暮らせると周りの誰もが羨ましがったけれども、ラーはバシューが長老の息子でなくても、結婚を申し込まれたら承諾していた。
猛々しい男性が多い中、柔和な性格の彼に惹かれた。ラーよりも狩りは上手ではなかったけれども、彼の分は自分ががんばればいいだけのことと思った。身重になってから、バシューはラーの分まで狩りを行った。家族が増えてからは取り分を今以上に得るために、危険な狩りに行くようになった。そして、怪我をし、二度と狩りができない体になった。長老の息子というだけで、食料を恵んでもらった。育ち盛りのギンはもっと食べたがり、祖父に甘えついてご飯をもらっていたが、一族の皆は内心では快く思っていなかっただろう。
その悔しさを一番身にしみていたのはバシューだ。時々、夜中にふらりと外へ出て行った。何のために出て行ったのはあえてさぐらなかった。彼は一人泣いていたのかもしれない。
ラーは振り返り城を見上げた。
あの中には一人息子がいる。この異変に気付いて泣いているかもしれない。だけど、彼には守ってくれる仲間がいるが、バシューにはいない。
私は……。
どうすればいいの?
ギンを救い出したい。だけど、一人荒野を歩くバシューを見捨てられない。
二人とも大切な家族だ。どちらとも失いたくはない。命の灯火が消えようとしているのは、バシューの方だ。ギンにはまだ三人の仲間がいる。
ギンに恨まれるかもしれない。置いていかれて泣き叫ぶギンの姿をかき消し、黒い豹の姿に変わるとバシューの後を追いかけた。
妖魔が来るとはわかっていたが、予想以上の数にワイルは体が緊張していくのを感じた。
「数が多すぎる」
呆然とワイルは空を見上げた。凶暴化したギストの鳴き声が聞こえてきそうだ。ワイルは額を流れ落ちる嫌な汗を拭う。
確実にあの中には群れを引き連れる王がいる。ムトゥントスと対峙したよりも強いプレッシャーを感じる。
あの数を相手に出来ない。どうすればいい。逃げ出すか? 人間との契約を律儀に守るのか。
一刻でも早く決断しなければいけない。遅くなればなる分、命を失う危険性が増すばかりだ。
ワイルとセラは影の中へ飛び込めば瞬時に先に逃げ始めた一族の元へといけるが、ギンはクロトはそうはいかない。
クロトは影から影へ飛び続けられるが、ギンはどうする?
ギンは影の中で閉じこもるしかない。
族長。
額から汗が流れ落ちる。
あんたって人は、過酷な選択をさせるんだな。
子どもたちを捨てて、城から脱出した男を誰も次期族長に選ばない。
あんたの腹黒さには感服する。
ワイルは近づいてくるギストの群れを睨みつけた。
何だかぴりぴりする。不安になったギンは横で寝転がっているクロトの顔を覗き込んだ。
「何だ。ギン?」
目を開けずにクロトは尋ねた。
「……怖いよ」
「何が?」
「わからないけど、怖い」
ギンはクロトにしがみついた。震えるギンを落ち着かせるように、クロトは髪をなでた。
なぁとクロトはいつもよりも落ち着いた声で話しかけてきた。
「俺たち、どこかに逃げ出そうか?」
「でも、妖魔を狩る約束しているんでしょう?」
そんなことをいうのが不思議でギンは尋ねた。
「まぁな。けど、どうでもいいんじゃねーか。人間がどうなろうともしっちゃこっちゃねぇ」
ギンは頷けずにいた。
メイレア姫はどうなってしまうのだろうか。
口を尖らせて、固まっていると、起き上がったクロトは部屋を出ようとする。
「どこ行くの」
「……どこでもいいだろう」
「行かないで」
ギンはすがり付いてきた。誰かがそばにいないと落ち着かない、甘ったれで弱いギンらしさが出てしまったとクロトは思ったのだろう。少々うんざり気にこたえた。
「すぐ戻ってくるからよ」
ギンは不安げな表情でクロトを見上げる。
「怖いよ。クロト。何か来るよ」
「はいはい。何か来るだろうよな。うまい肉がいっぱい来るだろうな」
ギンが抱いている不安をクロトは感じとってくれていないようだ。ギンの柔らかいほっぺたをむにゅっと摘むと、部屋を出て行った。
ギンは追いかけていっても邪険に扱われそうなので、止めた。
ギンは部屋の中でうずくまっていた。近くには誰もいない。ワイルとセラはどこかに行ったまま戻ってこない。大人の二人は、ギンが感じている恐怖の源を知っている気がする。
聞いてみたいけれど、ここから二人の位置を感じ取るのは難しかった。
いつの間に、ここはおどろおどろしいものにすっぽりと包まれたのだろう。
ギンたちが城に来た頃、人間たちは非常に神経が張りつめていた。
妖魔に対する恐怖と侮蔑している半獣人たちに頼らなければいけない屈辱に耐えかねていた。
彼らの心内は非常によくないものを呼び寄せる原因とはなっていたが、ここまで荒んではいなかったと思う。
やはり、妖魔がやってきたからだろうか。
だけど、妖魔は半獣人たちがやっつけた。だから、恐怖は取り除かれたはず……。
恐怖の存在である妖魔を倒した半獣人に人間たちは感謝せず、妖魔よりも恐ろしいものを見るように怯えていた。
なぜだろう。
まだ小さなギンにはわからなかった。わからないことがたくさんありすぎて、頭がパンパンになる。
ここに両親がいたら、ギンが悩んでいることを教えてくれるに違いない。
お母さんに会いたい。お父さんに会いたい。おじいちゃんに会いたい。
今すぐ、ここから飛び出して会いに行きたい。
会いたい気持ちで胸が一杯になる。
お母さんと小さな声で呟くと、涙が零れ落ちた。
――ギンは泣き虫ね。
そう言われてもいい。母親に抱きつき、温もりと匂いを嗅ぎたい。髪を優しくなでられて、膝の上で眠りたい。
「お母さん」
泣きながら何度も繰り返し告げていると、カチャリカチャリと鋼と鋼が擦れあう嫌な音が聞こえてきた。
ギンは怖くなり、影の中へ逃げようとする前に、ドアが開いた。入ってきたのは、メイレア姫の護衛のサンソンだった。
彼はいつもギンを見下している。人間は皆そうだけど、特に彼は苦手だった。彼が自分を見る目に憎悪が潜んでいるのを感じ取っていた。
何故、そこまで嫌われているのかわからない。
銀色の髪と、紅い目のせいなのだろうか。
それだけのせいじゃないと思う。
不思議に感じていたのが一つ。
ギンにはあんなに怖い目で見詰めてくるのに、メイレア姫には温かい眼差しで見詰めている。
彼にとってはメイレア姫は特別な存在なのだろう。
メイレア姫がいないのに、彼は一人でやってくるのだろうか。
不思議に思っていると、サンソンが近づいてきた。
胸騒ぎがする。頭の中で、逃げろ逃げろと叫ぶ声が聞こえてくる。
サンソンが柄に手を置いた時、ギンは影の中に飛び込もうとしたが少し距離があった。
ギンが飛び込むよりも、サンソンがギンの背を斬った方が速かった。ギンは床の上に落ちる。斬られた背から血液が流れ出し、体温が急速に奪われていく。
泣き叫びたいのを堪えて、影の中へと目指したが、思った以上に進めない。
大またで歩み寄ったサンソンは剣を突き立てて、背中を突こうとした。
その時、サンソンの心の中が見えた。
嫉妬。怒り。憎悪。
ゴオゴオと激しい音を立てて燃え上がる炎と黒煙の中、彼は立っていた。
恐ろしい魔物のような表情をしていると思ったが、不思議なことに彼は泣いていた。
激しい想いの奥にあるのは、メイレア姫への一途な想いだった。
今よりも小さいメイレア姫が告げる。
――わたくしを守ってね。
無邪気に笑いかけてきたメイレア姫を見てから、彼の心は決まった。
誰よりも姫が幸せになる為なら何だってする。
彼女が微笑んでいられるように。
彼女の幸せだけを願っていた。
この国には不安要素がある。それを取り除かない限り、メイレア姫は幸せにはなれないだろう。
人間の天敵である妖魔を倒せるように、日々稽古をした。
数人がかりであったが、妖魔を倒せた。彼は集団で妖魔を倒せるように訓練強化を進言する前に、王は決断をしてしまった。
妖魔を唯一狩れる半獣人に、国を守ってもらう。
だが、半獣人から交換条件に突き出されたのは、メイレア姫と半獣人の族長の孫息子との結婚だった。
誰よりもメイレア姫の幸せを望んでいた彼の夢は壊れた。
半獣人の妻となったメイレア姫を哀れむ。
そんな目で姫を見るな。
彼は、自分の不甲斐なさと国の対応に不満を募らせていった。
何がメイレア姫にとって一番いいのか。
彼はひたすら考えた。
姫を半獣人の手から取り戻すのだ。
何をすればいい?
辿り着いた先は、妖魔の肉をすすっていた小さな白い豹を殺すことだ。
あれは人の姿をしているだけ。本来の姿は獣なのだ。
躊躇うことなどない。
姫のためだ。姫が幸せになるために必然なことだ。
――殺してやる。
余りの恐ろしさに歯の根があわず、ギンは助けを呼べなかった。
だが、殺されると悟り、サンソンが体を突き刺す寸前に、ようやく半獣人にしか聞こえない特殊な声を出した。
――お母さん!
母親の姿が浮かんだ。母親に抱きつくと、お日様のようないい匂いがした。いつまでも、ギンは甘えっ子だなぁと笑う父親の声を思い出す。まだ、ギンは小さいんですものと、母は優しくギンを抱きしめてくれた。
もう一度、両親に会いたい。
――お母さん……。
ギンは願いながら、闇の中に落ちた。
影の中から、勢いよく若い黒豹が飛び出してきた。怒りに囚われた獣はサンソンの喉元にくらいついた。
一瞬の出来事に、サンソンは抵抗できなかった。黒豹は命が途切れたと感じたが、彼は食いついたまま決して放すことはなかった。
ギンの声を聞きつけたワイルとセラが影の中から出てきた。
護衛の喉に噛み付いたまま放さないクロトの異常な状況に、ワイルは一瞬あとずさった。
すぐ側に背を斬られ、息絶え絶えのギンがいる。セラは衣服を裂き、急いで止血する。
「ワイル、このままじゃ、ギンが……」
「セラ、先にいけ。治療できるやつに待ってもらえ。俺はギンを背負って追いかける」
ワイルは豹姿に変わると、背にギンが落ちないようにセラに布で固定してもらった。その後、セラは影の中に飛び込み、怪我を治せる一族の者の元へと跳んだ。
もし、ギンが影の中を跳んでいける能力を身に付けていたら、影の中に潜り込んでいただろう。だが、まだ幼いギンは影から影へと跳び移る力はない。妖魔が刻々と近づいてきている中、城を飛び出し、一族の元へと辿り着けるだろうか。
迷っている時間はない。迷う時間が少しでも長ければ、ギンは死に近づいていく。
「クロト、お前も早く来い」
ワイルは叫んだが、興奮しているクロトの耳には聞こえない。開いた瞳孔は何を見ているのか。
決して人間を殺してはいけない。禁忌を犯したクロトの行く先に心を痛めながら、ワイルは城を飛び出した。
やけに静かだわと、メイレア姫は思った。
いつも、側にいるサンソンがいなくて、不思議な感じがするけれども、彼がいない今なら西の塔へこっそり行ける。
メイレア姫は、ギンに会いたかった。
会って、色んなことを話したいと思っていた。
転々と世界を移動している彼らから、こことは違う景色を教えて欲しい。
ギンの部屋の前まで来たメイレア姫は扉を叩いた。しかし、返事はない。しーんと静まり返っている。
異様な感じがする。この静寂は、何かが違う。メイレア姫の胸がドキドキしてきた。
扉を開いてはいけない気がする。けれども、メイレア姫は開けた。
目に飛び込んできた風景は、真っ赤な血の海の中に、横たわるサンソンの姿だった。
すぐ側には、一匹の黒豹がいた。口元から赤い血がポタリポタリと滴り落ちていた。獣はじっとメイレア姫を見ると、影の中に飛び込み、するりと消えた。
何が起こったの?
頭が痛い。酷く痛い。割れてしまいだ。
メイレア姫はその場にうずくまった。さびたような鉄の匂いにむせかえった。
ギンは……?
サンソンの剣に血がついている。サンソンが誰かを斬ったのだろう。
誰を斬ったのか、メイレア姫はわかった。
銀色の髪の、紅い目をした小さな男の子。
どうして、サンソンがギンを斬ったの?
いくら考えてもわからない。
遠くから妖魔の声が聞こえてくる。早くここから逃げ出さなければと、体の奥から危険だと告げる声が聞こえてくる。だが、メイレア姫は動くことができず、血の海に沈むサンソンを眺めていた。
静かな夜だ。
風向きによって、ギャーギャーと鳴き叫ぶ妖魔の声が、離れたこの町にまで聞こえてくる。
祝宴でもしているのだろうか。
妖魔が住む城へ一度は訪れてみたいと思うが、妖魔は人を食う種族だ。見つかれば、餌食にされる。
肝試しと称して何人もの若者は城へと訪れたが、帰ってきた者は誰もいない。
今日は月が綺麗な夜だ。
妖魔の住処となった荒廃した城もさぞかし美しくみえるだろう。
月明かりに照らされた城を想像して、眠りについた。
<完>