物陰に隠れて見ていろと言われたので、素直にギンとクロトは従った。
鐘を鳴らしてから、人間たちは誰一人外へ出てこない。息を潜め、室内に閉じこもっている。
ギンは夜が始まった空を見上げた。輝く星々の数を数え、数がわからなくなると、隣に座るクロトに妖魔はいつ来るのと尋ねようとしたが、彼は不機嫌そうに宙を見詰めていた。
今度、皆で狩りできるよなんて言っても、うるさいと頭を殴られるだけなので、ギンは言わないことにした。
ギンはまだ人を励ますことができない。
メイレア姫は、ギンと同じ年くらいなのに上手にできていたのに。
だから、いつもこうして、ぎゅっと背中に抱きつくことしかできない。
時々言葉なんていらないと思う。
こうして、抱きついていたら、何となくその人の気持ちがわかる。
クロトはポカポカと頭を殴るけど、ギンのことを大切に思ってくれている。
クロトの匂いをかいでいると、家を思い出す。
母を、父を、祖父を。
帰りたいと思う。
クロトもギンと同じように帰りたいと思っている。でも、帰れないと思っているようだ。
何故そんな風に感じているのか、意識を集中して探ろうとしたが、思った以上の厚い壁に隔たれて、容易く覗けそうになかった。
僕には言えない何か秘密があるの?
突如、お腹が鳴った。
いつもこの時間に夕食を食べている。体は正直だ。
クロトは呆れたような目でギンを見詰めた。食べ物のことしか考えていない子だと思われているのではないかと考えると恥ずかしくなった。
「まだ妖魔は来ねーよ」
クロトは目を凝らして夜空をよく見た。西の空から飛んでくる妖魔が一匹見えた。大きな翼を使いながらも、四肢を駆けるように動かして飛ぶのはクルガに間違いない。
妖魔を確認すると、クロトの目つきが狩人に変わった。隙をみせた瞬間にやられてしまいそうな鋭い眼差しに、ギンは少し怯えた。
「来たぞ。ギン」
妖魔が近づいてくると感じると、ざわざわと心の中がざわめく。やがてその音が大きくなると、己の半身である獰猛な獣が目を覚ます。
鼻先が尖がってき、鋭い牙が生えてくる。全身が毛まみれとなり、手が前足に、足が後足になる。お尻からにょきりとしっぽが生えてくる。
ギンは銀色の豹姿に変身したのに、クロトは人の姿のまま変身しそうにない。
背中に抱きついたまま豹姿になったギンは不思議そうにクロトの顔を覗き込んだ。
「美味い肉、食えるといいな」
クロトがニマニマと笑った。クロトはどうやらギンがすぐに食事にありつけると思っているようだ。
お肉のことなんか考えてないのに。
ギンはカプリと軽くクロトの肩を噛んだ。
ワイルはクルガの背に乗り、背骨を折った。クルガが倒れこむと、影の中に溶け込んだセラがぬっと現れ、喉に食いついた。
狩りが上手い者は、獲物を余り傷つけずに倒す。間近で達人たちの技を見たギンは興奮し、クロトは己の未熟さにギリギリと奥歯を強く噛み締めた。
クルガが絶命すると、物陰に隠れていたギンとクロトが出てきた。
「すごいー」
ギンはこんな近くで狩りを見るのは初めてだったので、興奮していた。目をくりくりとさせて、死んだクルガの側へと駆け寄っていった。
ごはんごはんとギンがはしゃいでいると、激しい物音に気付いた住民たちが窓から恐る恐る覗いていた。
ただならぬ状況に片手に松明を持った三名の兵士がやってきた。彼らは火の灯りで横たわるクルガを確認するとお互いの顔を見合せ頷いた。
恐怖の存在である妖魔を倒してもらい、安心するどころか、半獣人の強さに怖れを抱いているようだ。
「妖魔は倒した。これはもらっていく」
いつの間にか人の姿に戻っていたワイルは告げると、妖魔をがっしりと抱えたまま、影の中へと溶け込んだ。
生きた別種族を影の中へは引きずり込めないが、死んだものなら影の中へと持っていける。命を終えた時点で、自然の摂理から解き放たれる。
死んだ妖魔は半獣人の食料となる。糧は血と肉となる。己の命をつなげてくれた妖魔に感謝し、食べれるものは全て食べ、使えるものは全て使うのが礼儀だと教えられてきた。
妖魔の毛皮は寒い冬を過ごすのに重宝される。骨は装飾や道具になる。
「じゃあな」
クロトはギンの手を引いて同時に影の中へと溶け込んでいった。
豹姿のセラは周辺に集まった人間たちの表情をしっかりと目に焼き付けると、辺りを警戒しながら、三人が飛び込んだ影の中へと消えた。
セラは自分たちを見る人間たちのあの目が忘れられそうになかった。
恐怖に怯える目は、やがて、我々半獣人に向かってくるだろう。一人一人は弱くても、この世界で数多く存在するのは人間なのだ。彼らが団結して一気に襲い掛かかれば、やっかいだ。ほんのわずかだが、半獣人に弱点を知っている人間がいるという。
半獣人の弱点。それは、剣。鈍く光る刃が何よりも恐ろしい。
私たちは、恐ろしい存在なのか? ただ食料たるものを狩っているだけだ。
彼らがよからぬ行動へと突き進まないように願うしかなかった。
ギンたちが影の中に入ると、再び豹姿に戻っていたワイルが待っていた。
「生肉!」
ギンは嬉しそうに声を上げた。
生で食べるときは獣姿に変わらないと食べられない。
ギンは豹の姿に変身し、妖魔にかぶりつこうとしたが、クロトの長いしっぽで鼻をはじかれた。
痛いと少し涙目になりながら、鼻を押さえた。
「一番初めに食べるのは、獲物を仕留めたヤツだ」
「おじいちゃんは、一番初めに食べていいっていうよ」
「じじいはじじい。ここではここに従え」
厳しく言われたギンはしゅんとなった。
見かねたワイルが間に入る。
「まぁ、いい。ギン、好きなところを食べていいぞ」
「本当?」
ギンは嬉しそうに目をくりくりさせて、一番おいしいところに飛び込んだ。硬い皮を必死に引きちぎって食べる。
いつまでも、ギンは甘やかされてすぎだとクロトは思った。後々苦労するのはギンだと言うのに。
祖父のように甘いワイルをにらみつけた。ワイルは我が子のように温かい目でギンを見詰めていた。クロトの視線に気付くと、彼が言わんとしていることがわかったのか、苦笑いをした。
「少しは遠慮しないか」
ギンはガツガツと食べていると、前足で頭をポカリとクロトに叩かれた。
ギンとクロトのやりとりを微笑みながら見ていたワイルは、人の姿に戻り、懐から袋を取り出した。その中には鋭い爪が入ってあった。
「これはもしかして」
ギンの目がキラキラと輝く。そうだとワイルは頷いた。
「ムトゥントスの爪! すごーい!」
「これは、皮を裂くのにいい。叩き潰すには、牙だな」
ワイルはムトゥントスの牙も見せてくれた。獰猛な妖魔とは思えない雪かとまごうその色にギンは見とれていた。
「俺はここで解体するから、お前たちは城へ先に帰れ」
ほんのりと冷えている影の中は、半獣人の食料庫代わりになっている。彼らは常に影となっている場所に食料を保管する。
「あぁ」
クロトは返事したが、ギンの返事がなかった。不思議に思ったクロトはギンに目をやると、ギンはお腹がいっぱいになり大の字になってすやすやと眠り始めていた。
起こすのも可哀想なので、クロトは背中にしょった。
「めんどくせー、世話のかかるガキだ」
と、クロトはうんざり気にぼやいた。
だが、ワイルはギンの寝顔を見たクロトの表情が優しくなったのを目の端でとらえていた。
冬の夜空は冴え冴えとしており、白銀色に光る月のでこぼこした表面まではっきりと見える。
雲の上をクルガの一群が飛んでいた。三頭並んで城へ静かに近づく。寝付いた小さな子どもを起こさないようにひっそりと。
城の西側の荒野には、テントが点在している。あれはきっと妖魔を狩る半獣人たちの住処に違いない。
月が雲に覆われた闇の中、音を立てず、一頭のクルガが城の中央の屋上に降り立った。
眠っていても、わずかな気配を感じれば目が覚める。
妖魔の襲来を感じ取ったセラは影の中へともぐりこみ、誰にも気づかれぬように移動していた。
彼女はテリトリー内にクルガが入ってくるのを待った。だが用心深いクルガは一向にやってこない。セラは辛抱強く待つしかない。
二頭のクルガは警戒しながら、城の周辺を飛んでいる。
彼らは一定の距離を保ち、容易に近づこうとしない。
もう少しで射程範囲内だというのに。
セラは焦らず、待ち続ける。
今晩はクルガを追い払うだけでいいだろうか。だが、流石に三頭相手は分が悪い。
まだ幼い長老の孫たちは気がついていないだろうが、ワイルなら異常な妖魔の気配を感じ取っているはずだ。
ワイル。何故来ない?
セラは耳を澄ます。だが、ワイルが動いた気配は感じ取れなかった。
ワイル、何をしている?
彼が眠りこけているとは考えられない。それとも彼はセラですらも感じ取れないくらい上手く気配を消しているのだろうか。
セラはワイルを信じることに決めた。
一頭のクルガが影の中に降り立った瞬間、影の中を移動しセラは襲いかかろうとしたが、その前に影から現れたワイルが喉元に喰らいついた。
クルガの大きな体が倒れこむ。
二頭のクルガはギャーギャーと声を上げ、旋回する。
残るクルガが動揺し、わずかな隙を見せた。その時を逃さなかったセラは突進した。首に噛み付き、そのまま落下していった。
屋上で争っている音を聞きつけたクロトは獣の姿に変身し、妖魔の襲来に全く気付かなかった自分に舌打ちをしながら、影の中を走りぬけていた。
妖魔の気配を感じ取れなければ、いつまで経っても半人前扱いのままだ。
クロトは悔しくてたまらない。
こんなことでは、一人で生きていけない。遅れをとれば命取りになる。
俺は死んでしまう。
俺は死ぬのか?
死という言葉に囚われたクロトは追い詰められていく。
一族から去らなければいけないと聞いたときから考えていた。誰よりも早く一人で狩りができるようにと努力してきたはずだ。
だけど、どこかで甘えていた。誰かが因習的なことをやめようと言ってくれるのではないかと期待していた。旅立つほんの少し前でもいい。直前でもいい。言ってくれるのではないかと思っていた。
今ようやく目が覚めた。一族に例外はない。誰であろうと掟は必ず守る。族長である祖父を見ていたのだから、わかっていたはずだった。祖父はギンには甘い。誰が見てもそう思っている。だが、本当にそうだろうか。孫はたくさんいる。なのに、なぜ、自分たちを選んだのか。そう考えた時、祖父の思惑が見えた。
じじいは、族長を退いてからも権力を固持したいために、孫を贄にしたんだ。俺とギンを。
初めから使える手駒だから、ギンを殊更かわいがっていたのだ。
クロトはようやく祖父の恐ろしさを知った。全身から汗が噴出してくる。
俺はまだ死にたくない。こんなところで死んでたまるか。ギンと二人で生き残ってやる。
「クロト!」
丁度、ギンの部屋の前の辺りを通った時、名を呼ばれた。振り返ると、影の中、膝を抱えて丸くなっているギンがいた。
ただならぬ気配を感じていたギンは血色がなくなっていた。
クロトにはギンの姿が自分に見えた。抗うこともできず、大きな流れに飲み込まれていく幼い子どもを誰も助けはしない。――手を差し伸べてはいけない。贄なのだから。
死がゆっくりと近づいてきた。
「妖魔が……来てる」
ギンは小さな声で告げた。半獣人にとって妖魔は大切な食料だ。気をつけて狩りをしなければ大怪我をする。だが、危険な妖魔を狩らず、年長者たちが食料を調達するまでじっと待っているをギンがこんなに怯える理由は何なのか。
「クロト。今来ている妖魔は普通じゃないよ。怖いよ」
ギンは駆け寄ってクロトの黒い体にしがみついた。震えているギンを振り払い、クロトは戦いを始めた仲間の元へと駆けつけていった。
一人ぼっちになる――孤独に耐えられないギンは急いで豹姿へと変身し、クロトの後を追う。クロトは影から影へと飛び移り、あっという間にギンと離れてしまった。
ギンは影から影へと跳び移れない。影が繋がっていないところはいったん地上に出て、ひたすら走り続けるしかない。
「待ってよ」
半べそをかきながら声を掛けたが、クロトはギンを置いて先に駆け抜けて行った。
「クロト」
ギンは影の中から飛び出した。静寂な闇の中、自分の足音だけが聞こえている。
ギンは必死になって足を動かす。いつもよりも速く、速く四本の足を走らせる。
クロトに伝えなきゃいけない。
クロト、全身がぴりぴりする。
体が怖いって言っているんだ。
妖魔は狩りに来たんじゃない。
ここを奪うためにやってきている。
クロト、そんな相手に立ち向かっていくの?
怖いよ。クロト。置いていかないで。
クロトに抱きついた瞬間、彼は闇よりも暗いものに支配されていると感じ取った。
絶望。決して光が差し込まない暗い場所に叩き落されていた。この世界から切り離された怒りと悲しみに、対処できる術はなく、ただひたすらに何かに集中して忘れようとしていた。
今の自分では到底倒すことができないと悟ったクルガを倒しに行く。傷だらけになってもいい。ただ忘れたい。
クロトを追い詰めたのが何なのかはギンにはわからなかった。正確に言うと、少しはわかった。ギンには決して知られたくないことだと言うことを。
クロトは何を知ったの? 教えてよ。
仲間を失ったクルガは飛んできた空へと引き返そうとした。しかし、飛び立とうとするクルガの下半身に額に傷がある黒豹が喰らいた。
クルガは悲鳴を上げながら必死になって振り落とそうとするが、黒豹は更に鋭い爪を立て、牙をくい込ませてくる。
クルガは黒豹を乗せたままここから逃げ出し、途中で振り落とすことにした。高く飛んだ後、地上に落とせば、半獣人もただでは済まない。
クルガは城から飛び立とうとした時、影の中から現れた若い黒豹に首元を噛み付かれた。
前足で若い黒豹を掴む。鋭い爪が左肩の黒い毛皮にくい込んでいく。まだ若い黒豹は痛みに耐えながらも決して力を緩めなかった。
最期の力を振り絞りクルガは、城の屋上から落下した。
クルガが落ちる瞬間、ワイルは体から離れたが、クロトはクルガとともに落ちていった。
「クロトー」
ようやく、屋上に辿り着いたギンが見たのは、妖魔とともに落ちていくクロトの姿だった。
「クロト!」
地上に落ちたクロトを心配そうに銀色の豹姿のギンが覗く。地上は余りにも遠くて、怖くなったギンは後ずさりした。
こんな高いところから落ちたクロトは無事なのだろうか。
「ギン、行くぞ」
えっとこたえる前に、ワイルに首をくわえられたギンは悲鳴を上げて落下していった。
屋上で何かが争っている音が聞こえた。妖魔と半獣人たちが戦っているに違いない。
メイレア姫は部屋の中で、一人小さくなって怯えていた。
誰か助けて。
恐ろしさの余り声も出せず、震えていた中、「わあーーーー」と幼い子どもの悲鳴が聞こえた。
あの声はギンだ。
ギンに何かあったのだろうか――最悪の状況が浮かび、メイレア姫は胸が苦しくなった。
ギン……。
メイレア姫の心臓が激しい動悸を打つ。
窓の外を見ると、黒い何かが落下していった。
黒い何かと共に白い小さな獣が一瞬見えた。
あれは、ギン?
ギンが襲われているの? 助けなければ。
彼女は自分が行っても何の力になれないと知っていた。
「サンソン」
メイレア姫は扉を開け、叫んだ。
部屋の前に控えていたサンソンが素早く対応する。
「何か、庭に落ちてきたわ。調べてきて」
メイレア姫はあえてギンとは言わなかった。
言えばきっと、サンソンは探しに行ってくれない。
「かしこまりました。調べてきます。姫はここから決して動かないで下さい」
メイレア姫は力強く頷いた。ギンが無事でありますようにと祈った。