序章
翁は朝起きると泉を覗きに行く。右手に杖を持ち、痛みがちな腰を左手で摩りながら、とぼとぼと歩いていく。
泉を覗くだけの単純な仕事だが、雨が降ろうが、風が強かろうが、雪が降ろうが、翁は前代から引き継いでからこの十五年間、毎朝休むことなく続けてこられたのは、これが人生最後の大役と思っているからだ。
家から泉に着くまでに、藁の敷いた石がある。昔はただの石だったが、ここを通る人が一休みしていくので、中央が徐々にへこんできた。体を冷やさないようにと心優しき近辺の住人が藁で編んだ敷物を置くようになり、「腰かけ石」と呼ばれるようになった。
年老いた彼は、一度ここで休憩をしなければ泉まで辿り着けない。息子たちは泉を覗く役目を他の誰かに譲ればというが、かつて豪腕で知られていた彼はがんとして頷かない。
――大事な任務を最期までやりとげたいんじゃ。
翁が蓄えた立派な髭を触りながら言った時は何を言っても無駄なので、息子たちは無理をせぬようにとしか言えなかった。
このような大役を与えられたからだろうか、翁は大きな病気はしていない。
仕事をまっとうできるように、子どもや孫たちの祈りを神様が聞いて下さったのかもしれない。
一休みし終えた彼はゆっくりと立ち上がり、泉へと向かう。しばらく歩くと、息が上がってきた。
――ワシも年老いたもんじゃのぉ。
しみじみと思う。若い頃は……と過去を懐かしがりながら、一歩一歩進んでいく。
ようやく泉に辿り着いたとしても、何もない――いつもと同じ風景が広がっているのであろう。
彼が前任者から受け継いでから十五年。何もなかった。
泉の水面は風に揺られて波打っているか、枯葉が落ちているかであった。今日もまた、どちらかだろう。
藪を掻き分け、泉へと辿り着くと、泉の中心から泡がポコポコと空に向かって浮かび上がっていた。しばらくすると、水面から獣の鼻面がみえてきた。獣はもがくように上へ上へと上っていった。その獣は銀色の鱗を持った幼き龍であった。龍はスルスルと泉から抜け出すと、木立の上でとぐろを巻き、吼えた。龍の咆哮に鳥たちが驚き、ざわめきながら四方へと飛び立った。
暁の空。銀色の鱗はまばゆい光をうけ、キラキラと輝いていた。幼い龍は、一気に神殿へと飛び立っていった。
――長く生きてきて、これほど驚いたことがあろうか…。
長く生きてきた翁は大きな衝撃も感動することもなくなっていたが、今日の異変にはしばし動けなかった。
神殿の者はすでに幼い龍が空を飛んでいるのを見ただろうが、その龍がこの泉から出てきたことを知らない。
直ちに知らせなければならない。それが翁の大役だった。
翁は急いで里へ戻り、神殿への出発の準備に取りかかった。