[ 1.候補者 ]
今朝から沙綾は何度目の深いため息をついたのだろうか。
落ち着かない。
集中できない。
余りにも緊張しすぎて、口から心の臓が飛び出てしまいそうだ。
厳しい冬が終わりを告げた。
雪や氷が溶け、植物が芽を出す誰もが待ち望んだ美しい季節の到来に、生命あるものは喜びの声をあげる。
日がながくなり、草木が萌え芽ぐみ、花々がつぼみをつけ開花する。
生命が輝き始める大好きな季節だというのに……。
沙綾はまたため息をついた。
日が明けて、身支度を整えた頃、銀色の幼い龍が現れたと興奮し叫ぶ声が聞こえてきた。
沙綾はすぐに部屋を飛び出して、空を見上げた。必死になって見渡したが、悠々と空を泳いでいるいつもの龍と凰しか見つけられず、幼龍を発見できなかった。
沙綾がいるこの世界では――天界にいる龍と凰は、下界の英傑の姿だと言われている。
龍は男性で、凰は女性。
その中でも特別な「龍」と「凰」がいる。
天界と下界との間で契約を交した一族の者が誕生した時、神泉から「龍」と「凰」が現れる。
契約を交わした彼らを守る者「ミスマルの子」を育てるため、日夜勉学に励む機関が三つ存在する。
「夜霧の里」「藤見の里」そして、沙綾が暮らすこの里「咲間の里」である。
沙綾は才能を見込まれ、十歳の年に故郷を離れ、ここへやってきた。毎日、ひたすらに勉強した。知らなかったことを知る快感、難題を解く苦悩の日々の連続だった。
時に仲間と励ましあい、時に熱く議論しあった。その日も、もう終わりを告げる。
あれから六年も経ったなんて信じられない。
皇子の誕生なら選ばれるのは女子で、皇女の誕生なら男子と決まっている。
現れたのは龍――皇子なので、沙綾を含めた十人の女子の中から選ばれる。
誰が選ばれるのだろう。
沙綾は自分が選ばれるとは思っていない。他の子たちは、自分よりも優秀だ。鈍くさい自分は無理だと思っている。初めからそんな気持ちでいると先生に怒られるかもしれないけれど。
先生――燿理(カガリ)は最年少の先生で、元はミスマルの子の候補者として、ここで学んでいた。だが、運悪く、彼が在学中に下界には御子は生まれず、ここで未来のミスマルの子を育てるために残った。いつも笑顔が絶えない朗らかな燿理だが、学びの時間となると、厳しい。問題を解けない沙綾が理解するまで熱心に教えてくれた。ようやく沙綾がわかったときは空が白んできたけれども、最後までいてくれた。
女子たちが集まって話をすると、自然と男の人の話題になる。一番人気はミスマル候補の一人で一緒に学んでいるトウヤだ。ややくせのある黒髪と、大胆な行動、強引さがいいらしい。彼とは違って、燿理の評価は地味で若々しさがない、じじくさいと散々な言われ方をされている。
沙綾はそうは思わない。燿理といるとほっとする。温かい飲み物を口にしたときのような感覚になる。誰にでも優しい燿理を見ていると胸中穏やかでなくなる。その優しさを私だけに向けて欲しいと何度願ったことか。
皇子が誕生し、ミスマルの子が選ばれたら、故郷に帰るか、あるいはここに残って、次なるミスマルの子のために教鞭をふるうしかない。
先生ともお別れかぁ。
そう思うと、涙が零れ落ちそうになった。もう会えなくなるのは淋しい。ここを離れる前に、妻問いされたら、なんて妄想して、一人にやけた。
「沙綾」
突然、名を呼ばれた沙綾は驚き振り返った。いつの間にか戸を開いており、燿理が部屋に入っていた。
「先生」
燿理のことを考えていた沙綾は、本人の登場で気が動転した。何をそんなに慌てふためいているのかわからなかったが、燿理は微笑んだ。
「そろそろ、教室へ行きなさい。発表があります」
「はぁい……」
元気のない返事と俯いたまま歩く沙綾に、燿理の目つきが厳しくなる。
「いつもいっているだろう? 顔を上げなさいと」
「すみません」
燿理はふうとため息をついた。
「沙綾の悪いところは自信が無いところだね。自信を持ちなさいと何度もいっているだろう」
「先生はそのように仰いますが、私には自意識過剰に聞こえるんです」
なるほどと燿理は頷いた。
「謙虚というのかもしれないが、私にはやっぱり自信がないとしか見えない」
燿理はきっぱりといい切られ、沙綾はがっくりと肩を落とした。そんなに何度も自信が無いと言わないで欲しい。
少々のことでは傷つかないと思われているようだけど、顔には出ないだけで、傷ついてはいるんだから。
沙綾とやや低めだが甘い声で名を呼ばれ、沙綾の胸がどきりとなった。
「君の歌声は清々しい。思わず聴き入ってしまう。君の歌声を求めて何人の人がやってきた?」
「たくさんいました。けど、私の顔を見て、皆がっかりしちゃいました」
美声にひかれてやってきたものの、歌い手が極めて平凡な少女で、皆、露骨にがっかりした。その態度に、年頃の少女の心は大きく傷ついた。
人の美しさは内面から出てくるものだ。外見だけにとらわれているものなど小さい人間だと燿理は慰めてくれたけど、同じ年頃の男の子たちを見ていると、やはり容姿重視のように思えた。
前を歩く燿理に勇気を振り絞って尋ねてみた。
「私、ここで、先生になってはいけないでしょうか?」
燿理は振り返らず、返答した。
「発表を聞いてから、決めなさい」
教室には沙綾以外の学生がすでに席に座っていた。男子十二名。女子十名。女子は皆緊張しているが、男子は悲観している。
あの自信満々なトウヤでさえも、がっくりと肩を落としている。
今現在、契約者の一族の主は女帝で、彼女が産んだ子のみが新しい契約者となる。彼女が次、子を産むまでは早くても一年は待たねばならない。その間待つしかないのだ。だが、ここにいれるのは十八歳までだ。十八を過ぎれば、ミスマルの子の資格はなくなる。
十六歳の沙綾はギリギリ機会に恵まれたといえる。燿理より運が良かったといえるだろう。
どんなに優秀であろうとも、十八までに御子が生まれなければミスマルの子にはなれないのだから。
頭部はすっかりはげてしまった代わりに、真っ白な髭を伸ばしたシワとしみだらけの老師が、杖をつきながら教室にやってきた。
学生たちの前に立つと、咳払いをした。
「皆、知っていると思うが、今朝、白い龍が現れた。皇子の守護者として下界へ下る咲間の里の代表者を発表する」
老師は大きく息を吸ってから、沙綾の名を呼んだ。
皆の視線が沙綾に注がれる。信じられないと聞こえてきそうな目つきだ。
落選だと思っていただけに、何故自分が呼ばれたのかわからなかった。
「は、はい」
驚いた沙綾思わず席を立ち、返事をした。
「沙綾、咲間の里の代表のミスマルのムスメの候補者の一人として、八国から訪れる代表者から信頼を得、勾玉を得るのだ」
老師に言われても、ピンとこない沙綾は、彼の隣に控えめに立つ燿理をチラリと見た。沙綾と目が合うと、燿理は嬉しそうに、そして、励ますように頷いた。
燿理の対応にようやく、自分がミスマルの子に選ばれたと知った。
ワタシがミスマルのムスメ?
嘘でしょう? 冗談でしょう?
自覚するまで時間がかかりそうだった。