テントから離れた場所でギンはクロトと遊んでいると、一人の少女が遠慮しがちにやってきた。
最近よくクロトに会いにくるあの少女だ。
長く伸ばしたやや茶色がかった黒い髪をきっちりと編みこんでいる。ほんのりと赤く染まった頬、焦色の瞳が恥ずかしそうにクロトを見詰める。
クロトは立ち上がると、彼女の元へと歩み寄り、二人肩を並べて遠くへ行ってしまった。
一人残されたギンは不機嫌になり、クロトとはまったく別方向へと歩き出していった。
ギンは気に入らなかった。
最近クロトはすぐに女の子と一緒にどこかへ行ってしまう。ちっとも遊んでくれない。
母親にいえば、クロトはお年頃だから仕方ないって楽しげに笑った。
お年頃って何だろう?
6歳になったばかりの小さなギンにはわからなかった。
ギンが一人歩いていると、城門が開き、中から一軍を率き出てきた王国兵士達がこちらへと向かってきた。
なんだろう。
胸騒ぎがする。
ギンは祖父のいるテントへ走っていった。
「おじいちゃん! 城からいっぱいの兵士がやってくるよ!」
テントに入ってきたギンは息を切らせながら告げた。
部屋の中央に座る族長の祖父は白髪の混じった顎鬚を撫で、腑に落ちない表情を浮かべていた。
「……高い壁の中から一歩もでてこなかった臆病なやつらが何ゆえに……」
「隣国へと行こうとしているのかもしれませんよ」
隣に座っていたギンの父は陽気にいった。
「妖魔が多く出没するこの時期にか?」
浅はかな発言をした息子に族長は一瞥した。
「おじいちゃん。何だか怖いよ。ぴりぴりする」
ギンは祖父に抱きついた。
人一倍感受性豊かなギンの言葉を祖父は慎重にとらえた。
彼らは何かよからぬことを持ち込もうとしているに違いない。
族長から命令が下った。
子どもたちは皆、影に溶け込むようにと。
影に溶け込むとは、半獣人たる彼らの持つ能力の一つで、まるで水中に入るかのように影の中にすっぽりと入り込むことができる。
族長の緊急の声――半獣人の彼らにしか届かない独特の音を聞いた子どもたちは素早く影に溶け込んだ。
ギンは、自分のテントの影に溶け込むとすでにそこには何人もの子どもたちがいた。
「何でお前達がここにいるんだよ!」
普通なら自分のテントの影に溶け込むのに。自分の居場所を先に取られたギンは面白くなかった。
「何でって、何か面白い事はじまりそうじゃないか!」
「うん、わくわくする!!」
子どもたちははしゃぎ声を上げた。
「あいつら何をしに来るのかしら? ギンは知らないの?」
「……知らないよ」
族長の孫のギンに皆期待したが、ギンの発した言葉に一同がっくりと肩を落とした。
「あたし達に悪さしようとしているのかしら」
「妖魔に食われちまうようなヤツラが、俺たちにかなうもんか」
「そうだそうだ。頭から食っちゃおうか?」
「うん。そうしよう!」
人間っておいしいのかなぁ等、いいあっている子どもたちに、
「それはダメだって決まっているだろう?」
と、いつの間にか影に溶け込んでいたクロトが注意した。
子どもたちはブーとむくれた。
「人間は、食うなって決まりだろう。それを破るヤツは、この場で俺が食ってやる」
ふふふと不気味な笑い声を上げ、歯の根をがちがちいわせると、子どもたちはぎゃーと泣き叫んだ。
散々子どもたちを怖がらせたクロトは楽しそうに笑った。
ギンには、脅えている子ども達がいつもクロトにいじめられている自分のように映った。
人間達は族長に会いたいと、半獣人の男に頼んだ。案内されたのは中央にある一際大きなテントだ。
部屋の中央にはやや年老いてはいるが、鋭い眼光の男が静かに座っていた。
彼らは一礼すると名乗った。人間達は王国の一大臣と従者だった。
大臣は王直筆の書類を族長に手渡したが、族長は受け取らなかった。
拒絶されたのかと人間達は思ったが、やんわりとした物腰で族長は告げた。
「すまないが、我々には文字という文化がない。読んでくださらないだろうか」
文字を持たない下等な半獣人に頼らなければならない屈辱と、彼らの文化を知らなかった情報不足に舌打ちしそうになった。
国の行く末がかかっているのだ。
あらゆる感情をこらえなければならない。半獣人の気を損ねるような行動はとってはいけない。
大臣は頷き、心を落ち着かせてから読み上げた。その内容に、テントの中にいた半獣人達は驚愕した。
「俺達に、お前達の飼い犬になれっていうのか?!」
その声は怒りの余り震えていた。族長は血気盛んな若者を手で制した。
「決してそのような事ではございません。守ってくださいと申し上げております」
今にも襲い掛かってきそうな半獣人に青ざめながら大臣は告げた。
一族の怒りはもっともである。しかし、人間達の言い分もわからぬことではなかった。
人と獣の姿を持つ――どちらにもなれない、半端な半獣人族の力など借りたくない。
半端な生物に、完全たる自分たちが頼らなければならないことに耐えられないだろう。
だが、今はそういってはおられない状況にある。
半獣人に頼らなければ、国が滅びるかもしれないのだから……。
今年の妖魔の数は間違いなく多い。
だからこそ、族長は妖魔を確実に狩れるここを選んだのだ。
妖魔に脅える彼らを助けてやりたいと思う気など族長にはなかった。
三竦みの状態を崩してはならない。それは太古の時代からの決まりだった。
今なぜ、その状態を壊そうとするのか。
何が望みなのか? 何を企んでいるのか?
「……よかろう。ただし条件があります」
族長は見定めるため、1つ条件を出した。
族長は決して人たちが飲み込まないと予期していた上での条件だった。
その条件を影の中で聞いていた子ども達はギンを見詰めた。
それって、どういうこと……?
ギンは助けを求めるようにクロトを見た。
クロトはよかったじゃないの? と無責任な発言をし、ギンはますます困り果てた。
先ほど戻ってきたばかりの大臣の報告を聞いた王妃は激しい眩暈に襲われ倒れた。
侍従が駆けつけすぐさま王妃を自室のベットへと運んだ。信じられない報告内容に人々はざわめいている。
「何と言うことを……」
王はうめき声を上げた。
半獣人は無理難題を突きつけてきた。
――姫君を私の孫息子の嫁に迎えてくれるのなら考える。
たった一人の可愛い娘を半獣人にやることなどできない。
しかし、ここで断れば……。
我々はあの恐ろしい妖魔に脅えなければいけない。夜、安心して眠れない日々を送る事になる。
いつ襲われるかもしれない恐怖からの解放を望むのなら、愛する娘を半獣人に差し出さなければならない。
王の子として生まれたのならば、国家の為の犠牲はやむをえない。
しかし……。
王は葛藤の末、決めた。
親としての苦渋の選択が国家の為になることを祈らずにはいられなかった。
メイレア姫は母妃に呼ばれ部屋に行った。
母妃はベットに横たわっていた。母妃の血色のない顔色にメイレア姫は不安に襲われた。
「お母様……!」
このまま母妃が死んでしまいそうで、メイレア姫の目から涙がポロポロと零れ落ちた。
「あぁ、私のメイレア。何てかわいそうな子……」
母妃は腕を伸ばし、メイレア姫の顔を包んだ。
「あなたは、野蛮な一族を迎え入れなければいけません。王がお決めになりました。国家の為だと……。メイレア、決して彼らと馴れ合ってはいけません。あなたは誇り高き王族の姫なのですから」
何のことだかよくわからなかったが、母妃の方が哀れに思えたメイレア姫は安心させるために頷いた。
「……わかりました。お母様」
メイレア姫は部屋を出ると、そこにはサンソンが待っていた。
「王様がお呼びでございます」
メイレア姫はサンソンと共に父王の自室へと向かっていった。
そして、父王から話を聞いたメイレア姫は静かに受け入れた。
恐ろしい妖魔から身を守る為には、自分が半獣人の族長の孫の花嫁になるしかないのだ。
自室に戻って来たメイレア姫はバルコニーに立ち、城壁の向こう側の世界に住む半獣人たちを見詰めていた。
数人の子どもが茜色に染まった荒野を走り回っている姿が見える。
彼らの中に、花婿になる少年がいるのだろうか……。
あの恐ろしい妖魔を狩り、それを食べる半獣人。
今のメイレア姫には妖魔よりも恐ろしい存在であった。
もしかすると、私も食べられてしまうのかしら……。
トクンと心臓から響く音が聞こえる。その音はますます大きくなっていく。
体が震えだし止まらない。
「……姫」
メイレア姫の様子に直ちに気付いたサンソンは駆け寄った。
彼女の顔色は真っ青で、額から冷汗が噴出していた。
「……サンソン。私、半獣人に食べられてしまうの?!」
硬直した顔。瞬きをしない蒼い目の瞳孔は開いている。
サンソンはメイレア姫を落ち着かせるように必死になった。
「そのようなことは決してありません。半獣人は妖魔は食べますが人は食べません」
「本当に……? 信じていい?」
涙に濡れた頼りなげな碧眼がサンソンを見詰める。
「私を信じてください」
「……ありがとう。サンソン」
メイレア姫は涙を拭いた。
まだ、こんなにも幼い姫に国家の行く末を任せるとは……。
サンソンは王を憎んだ。そして、自分の力のなさにいらだった。
俺に妖魔を狩れる力があれば、姫をこのような目にあわさなかった。
決して。