物陰の奥から微かに泣き声が聞こえてくる。クロトはギンに気付かれないように近づいた。
暗い荷物置きの隅に、背を丸めて泣いているギンがいた。
「ギン。元気出せよ」
クロトはギンの背をポンと叩き、隣に座った。
「……おじいちゃんは、僕のこと嫌いなんだ」
紅い目をより一層真っ赤にしてギンはわんわん泣いた。
「んなことねぇよ。じいちゃんはギンのこと大好きだぜ」
「だったらどうして、僕を人にあげちゃうの?」
人間の花婿となり城内で暮らすことは、まだ幼いギンには一族に捨てられたとしか思えなかった。
「僕が銀色の髪で、目が紅いから? 気持ち悪いから?」
答えてとギンはクロトの腕を掴み激しく揺すった。
決まりがある。誰が決めたのかはわからない。古くから伝えられている。
近親婚を繰り返した結果、白い子が生まれる。
白い子は、濃くなりすぎた血を薄めるようにと警鐘しにきたといわれている。
白い子が産まれた血族は、一族を去らなければならない。
誰が一族を去るのか。
――4年前。
寝静まった頃、血族はひっそりと集まった。
クロトはうつらうつらしながらも母に手を引かれ、祖父のテントに訪れた。
子どもが自分しかいないことにクロトは不思議に思わなかった。
ただ、眠くて眠くて、仕方なかった。早く話が終わればいいと思っていた。
クロトと祖父に名を呼ばれた時、まだ半分寝ていて、隣にいた母に背を叩かれて目を覚ました。
クロトは目を擦りながら、祖父を見た。家族内でしか見せない優しい表情はなく、尊敬と畏怖の念を与える族長の表情をしていたのを覚えている。
一人前に狩りが出来るようになったら、お前は一族を離れる。
運よく、他の半獣人族と出会い、気に入ってもらえば、迎えられるだろう。
それまでは、荒野で一人生きるんだ。
誰よりも早く、狩りを覚えろ。
一人でも狩りができるように、訓練するんだ。
夢だと思った。何かの冗談だと思った。俺を驚かせようとしてこんなこといっているのだと。
周りの大人たちを見渡したが、苦渋の表情を浮かべ、クロトと目をあわさないようにしていた。
隣に座っていた母が肩を震わせ、声を殺して涙を流しているのを見て、現実なんだと知った。
なんで、俺が……?
他にもいるのに、なんで、俺なんだよ!
自暴自棄に陥ったクロトは、自分を一族から追い出す原因となったギンを恨んだ。
ギンが生まれなければ、このままここにいられたのに。
俺は出て行かなきゃならないのに、ギンはここで皆に守られて、大切されて育っていく。
狩りに失敗しても、誰かのおこぼれをもらえる。飢えることなんてない。
独り荒野で生きていかなきゃいけない俺は、狩りに失敗すれば、飢える。
怪我を負ったら死ぬんだ。誰にも気づかれず、独り死んでいくんだ。
この先、孤独と飢えと死の恐怖に怯えながら生きていかなきゃいけない。
ギンがいなければ。
ギンなんか、生まれてこなきゃよかった……。
何も失うものがないギンに、クロトは殺意を抱いて近づいた。
細い首に少し力を入れたら簡単に息絶える。
一面に草が生える広い原に、ギンは一人座って青い空高く飛ぶ鳥を眺めていた。
銀色の髪が風に吹かれてなびいていた。
背後に人がいると気づき、振り返ったギンは従兄弟のクロトだとわかると嬉しそうに笑い、駆け寄ってきた。
あどけなく笑うギンを、疑うことなく自分を慕うギンを、いつもくっついてくるギンを憎むなんてできなかった。
ギンはかわいい従兄弟なんだ。
甘ったれて、泣き虫で、誰かがそばにいなきゃいけない子なんだ。
いつか、別れる日がくる。そう遠くないけれど。
その時まで、ずっと、一緒にいよう。
もし、俺が出て行ったら……。その理由を知った小さなギンはきっと胸を痛めるに違いない。
自分の存在を呪い、泣き続けるのだろう。
生まれてこなければよかったと。
「かわいいギンを人間なんかにやったりするものか。じじいにはじじいの考えがある」
「……どんな?」
ギンは首をかしげて尋ねた。しかし、クロトは今はまだ応えられなかった。
「……大きくなったらわかるさ」
「……クロトはわかっているの?」
ギンに問われたクロトの黒い目がどこか遠くを見詰めていた。
何を考えているのだろう?
ギンはクロトの横顔を眺めていた。
「……大丈夫さ。お前一人を行かせたりはしない」
ギンの視線に気づいたクロトは、不安げに見詰めているギンの銀色の髪をくしゃくしゃっと撫でた。
「……もしかして、クロトも一緒に来てくれるの?」
あぁとクロトは笑顔で頷いた。
「さっき、じじいに呼ばれて、そういわれた。俺だけじゃない。後、ワイルとセラもいっしょだ」
「ワイルも!」
ワイルが一緒に来ると知ったギンは嬉しそうに目を大きく見開いた。
ワイルは32歳になる男性だ。狩りが上手く勇敢で、その証に体にたくさんの傷がある。
額の大きな傷は、ワイルよりも数倍大きい獰猛な妖魔――ムトゥントスを倒したときにできた名誉ある傷だ。
セラは25歳になる女性で、冷静沈着で素早く状況判断し、指示ができる優秀な人材である。
彼らの名を聞いたギンは、祖父は自分が嫌いになって人間に差し上げるのではないと理解した。
一族の大切な人を一緒につけてくれるのだから。
「ヤツラが条件を飲んだら……。俺たち3人で必ずギンを守ってやるから」
安心しろとクロトはギンを抱き寄せた。
「……うん」
ギンはぎゅっとクロトに抱きついた。
心配するな。
必ず、俺がギンを守ってやる。
人間たちが去った後、しばらくしてからクロト、ワイルとセラは族長に呼び出された。
人間がもし条件を飲み込んだら、ギンと一緒に城へ行ってくれと。
困惑したクロトは祖父である族長に尋ねた。
「俺は、一族を去らなきゃならないのに……?」
クロトは近いうちに一族を去るつもりでいた。
一族と決して会うことのない遠くへ行く予定だった。
だからこそ、強い決意をし、初めて恋したあの子に別れを告げたのに……。
「ギンは繊細な子だ。慣れない場所で、一人では到底暮らせない。だが、お前がいればギンは安心する。それに、城で暮らすことは一族から去ると同じだ」
「……俺は去らなきゃならなかったからいいとして、ワイルやセラは?」
クロトは側に立つ二人の返答を待った。
「族長から選ばれた。これ以上の名誉なことはない」
表情一つ変えずにワイルは告げた。
クロトはセラに視線を向けると、セラは静かに頷いた。
「けど、城内に妖魔が侵入してくること事体稀なんだろう? もし、何日も妖魔が来なければ俺達は餓死する……」
そういった後、クロトははっと気が付いた。
ワイルとセラの共通点――特異体質に気付いたのだ。
「……そうか、だから、か」
半獣人は水の中に入るかのように、影に溶け込むことができる。
特異体質の彼らは、溶け込んだ影から数キロ先にある別の影まで瞬時に移動できるのだ。
城内の者に気づかれないように影に溶け込み、妖魔のいる場所へ移動し狩りをすればいい。
特殊能力の無いギンとクロトは影に溶け込み、狩りを終えた仲間が餌を運んでくるまで影の中で待てばいい。
「そんなに上手くいくのか……」
「上手くいかなければ、お前たちが飢えて死ぬだけだ。死にたくなければ上手くやるんだな」
嫌になるほどかすれていた声に、クロトは自分が平静さを失っていると気付いた。
ワイルとセラがもし、狩りに失敗したらどうなるんだろう。
俺とギンだけになってしまって、城内に妖魔がやってきて、俺は妖魔を狩れるのだろうか。
俺まで失敗したら、ギンは……死んでしまう。
じじいが、腹を空かしている俺たちに、餌を分け与えてくれるはずがない。
親戚だろうが、かわいい孫であろうが、同情なんてしない。だから、族長に選ばれたんだ。
相変わらず、容赦ねぇじじいだ。
そして、最後に一言、族長は3人を見据えて告げた。
「何があっても、人と争うな」
念を押すように。
3日後、再び城門が開き、王は条件を受け入れたと大臣が告げにきた。
王国を妖魔から守る為に、7日後、ギンは花婿として城に入る。
その日は、この冬初めての雪が降った。
真っ白な雪はフワフワと舞い落ち、儚く地に消えていった。
肌がひりひりする。
ギンは隣にいるクロトの右腕を掴んだ。
人間達の不躾な視線が肌に直接突き刺さる。
ギンは早く終わって欲しいと願った。
風が吹けばすぐに飛んでしまう頭にのせただけの小さな白い帽子。
手首がすっぽり隠れてしまう長い上着。ズボンのすそには綺麗な金の刺繍がほどこされている。
白い肌に銀色の髪のギンが、真っ白い衣装を着ると全てが真っ白になり、おぼろげに見える。
雪が一面に降り積もった原野に滴り落ちた血のような、鮮やかな緋色の目に、式場に参列した人間達は災いの訪れを感じた。
ギンの花婿の衣装は母が作ってくれた。
「こんなに早く、ギンの花婿衣装を作るとはね……」
母は悲しげに呟いた。
「僕、行きたくない」
まだ6歳にしかならないギンは母の胸にしがみついた。
「ギン、堪えてちょうだい。お母さんだってギンを行かせたくないのよ。だけど、決まったことなの。ごめんね、ギン」
「……うん」
ギンは目を擦った。
いつもは陽気な父――バシューも今日ばかりは神妙な面差しで我が子を見つめていた。
族長――父さんは、なぜ、ギンを選んだ。
か弱く、まだろくに狩りもできないギンを、なぜ、選んだ。
族長の孫なら、他にもいた。
なぜ、私のギンなのだ。父さん。
族長に物を言える立場ではない。
狩りに失敗し、大きな怪我をした。もう二度と狩りができなくなってしまった足手まといの自分が、一族の中で暮らしていけるのは、族長の息子だからだ。
もし、族長の息子でなければ、当の昔に放逐されていたに違いない。
そして、家族三人、荒野で屍になっているのだろう。
怪我をしたのは私だ。
ギンに何の罪がある。
ギンは私の代償ではない。
バシューは父親である族長を憎んだ。
こんな幼い子に国の運命をかけなければいけないのか。
緊張気味な花婿と違い、花嫁のメイレア姫は毅然とし、神々に祝福されたかのように美しかった。
サンソンは激しい胸の痛みに耐えながら、末端で幼い二人の結婚式を見ていた。
間違っている。
国民を救うために、怖ろしい妖魔を喰らう獣に、姫が嫁ぐしかなかったのか?
無能な王、大臣に怒りがこみ上げてくる。
こんな不幸な結婚を姫はしてはいけない。
俺は認めない。
必ず、俺が辛酸を舐めた姫を救出してみせる。
華やかになるはずの一国の姫君の結婚式だというのに、城内は異様なくらいに静まり返っていた。
一国の将来を託された代償は大きかった。
幼い姫君が哀れで、涙を誘った。