ギンはバルコニーから城の外を眺めていた。
少し背伸びしなければ、半獣人たちのテントが見えない。
西の空が茜色に染まっていた。冬の夕焼け雲は澄んだ大気に映えて、とても綺麗だった。
各テントからは、今晩の食事の仕度中を知らせる煙が上がっている。
中央にある大きなテントには族長の祖父が暮らし、その側にあるやや古ぼけた小さなテントにはギンの両親が暮らしている。
ギンは我が家を眺めていた。
皆ともっと遊びたいのだけれども、夕日に背中を押されて家に帰った。
温かい料理があって、そこには父と母がいる。
他愛ないことを話し、三人一緒になって眠った。
もう、二度とあそこには帰れないのだろうか。
丁度、母がテントから出てきた。
思わず「お母さん」と叫んだ。声は遠くにいる母には届かない。
だが、彼女は城から見詰めているギンの視線に気付き、見詰め返した。
「お母さん!」
もう一度叫んだ。
母を呼ぶ子に、こらえていたものが一気にあふれ出しそうになった母は、目頭を押さえてテントの中へと戻ってしまった。
「お母さん!!」
ギンは獣の姿――銀白色一色の斑紋も無い豹の姿となり、ここから飛び降りようとした。
人型では飛び降りれないが、獣の姿なら簡単に降りられる。
だが、いつの間に側に来ていたクロトに首根っこを押さえられた。
「行っちゃいけないってわかっているんだろう」
ギンは美しい真白な銀色の豹の姿から小さな男の子の姿へと戻った。
ギンの目から涙がポロポロと零れ落ちた。
「クロト……お母さんにもう会えないの?」
会えない。と、小さなギンに言えるはずがない。
不安そうにしがみつくギンをクロトはそっと抱いた。
クロトの暖かい体温に、ギンは徐々に心が安らいでいった。
「……いつか、会えるさ」
「いつ?」
ギンは顔を上げて尋ねた。
ほんのわずかでもいい。希望を持ちたかった。
「妖魔がここに来なくなったら」
「本当?」
「あぁ」
妖魔がこの城に来なくなれば、半獣人たちの役目はなくなる。
その時がいつになるのかはわからないけれども。
「寒くなってきたな」
中に入ろうとギンの手を引いて、室内へと戻った。
日が沈むと急に寒くなる。
冬の夜の始まりは、早く長い。狩りを行わない夜は、皆、早く床についてしまう。
冬が来ると、クロトは家族が寝静まるのを確認してから、外へと抜け出した。
空気が冷たい冬の夜空は冷ややかで、星は冴え冴えとした光を放ち、美しい。
城から見る夜空に輝く星は、今まで以上にもっと近くに感じるだろう。
家族と離れ離れになり、不安でしょうがないギンには悪いが、少し楽しみだった。
――少しぐらいの楽しみがなければ、やっていけない。
王はグラスにワインをなみなみと注ぎ、一気に飲み干した。
彼は寝る前に飲酒しなければ眠れなくなっていた。
酒の量は日々増えていく。
あの忌々しい獣の族長。
愛しい我が娘を嫁がせただけではまだ物足りないというのか。
強欲な獣の長め。
王は再びグラスに注いだ。
族長は西の塔全てを半獣人のために明け渡してくれないかと申し出た。
「お互い距離を置いた方がいいと思うのだがね」
族長は王をじっと見据えた後、ほんの一瞬だけ薄笑いを浮かべた。
獰猛な獣に狙われ、逃げる場所も無い恐怖を、体の芯から感じた。
震えを必死に抑え、「我らとて、望むことだ」と虚栄心を悟られぬように告げた。
西の塔を半獣人に全て渡すと知った家臣が、言いなりになりすぎだと抗議してきた。
王は家臣たちと話す気もなかった。
今までにお前たちは良案を考えついたことがあるか?
いつまでたっても結論が出ず、時だけが過ぎていった。
その結果、国が疲弊していった。
妖魔から守ってもらうためには、卑しい半獣人に、愛する一人娘を差し出すしかなくなった。
「お前たちは逆らえるのか。あの怖ろしい妖魔を一撃で倒すという獣たちに」
怒りの拳を握ったまま何も言い返せない家臣たちを王は蔑みの目で見た。
人を非難するのは容易い。吼えるだけの犬め。
半獣人がこの国を妖魔から守ってくれればいい。
もし、この国が妖魔に襲われた場合。
私は知っている。
半獣人の弱点を。
もし、国民一人でも妖魔に襲われた時は、容赦はしない。
王は狂ったかのように笑った。笑い続けた。
手に持ったグラスからワインが零れ落ち、上等な絨毯の染みとなった。
西の塔は、ギンたち半獣人が住むように与えられたのだが、彼らには居心地が悪くて仕方なかった。
城内はひんやりとし、空気の流れは悪く、こもっている。
石床の上で寝転がるとたちまち体を冷やしてしまうだろう。
一番厄介なのは、人間たちが歩くときにたてる足音だ。
カツンカツンと響く音に、耳の良い半獣人には不愉快でたまらない。
人間たちは西の塔へは立入禁止となっている。半獣人にはありがたかった。
半獣人は部屋の中にある繊細でかつ美しく、芸術性が高い調度品を愛でる習慣は無い。
壁に掛けられた美女の絵画にも興味を示さない。
人間たちの歓迎は半獣人には理解できず、半獣人は人間たちの持て成しをくみとれなかった。
「石ってやつは、嫌だな」
クロトは足で確かめる。跳ね返す硬い感触が気に入らない。石床であっても、半獣人の能力である「影に溶け込む」ことが出来るのだろうか。
クロトの疑問を感じ取ったのか、セラが応えた。
「大丈夫よ。影の中に入れるわ」
セラは手本を見せるように、ベッドの側に出来た大きな影の中に軽やかに飛び込んだ。彼女は足元から水の中に沈んでいくように、消えていった。
「まずは安心だな」
ワイルはクロトの肩にポンと手を置いた。
影の中からセラの両手がにょきりと出てきた。続いて頭部が現れ腰まで見えると床に両手を付き、くるりと前転し音をたてずに石床に着地した。
城内でも普段と同じように能力が使えると確認したクロトは、ギンと名を呼んだ。クロトの隣に立っていたギンは何と尋ねた。
「何かあったら、ギン、影の中に飛び込むんだぞ」
「うん」
ギンは素直に頷いた。
「練習しておいた方がいいんじゃないか」
ワイルはやさしい目付きで笑った。
「練習しなくてもできるよ」
「本当かよ」
クロトは自信満々に応えたギンを疑い深い目で見詰めた。
「できるもん!」
ギンは一番濃い影の中――先程セラが飛び込んだところに、頭から飛び込んだ。綺麗に影の中に溶け込んだので、一同は胸を撫で下ろした。
強く言い切ったのにできなかったら、ゲンコツで殴ってやろうとクロトは思っていた。
何かが起こったときに、できなかったでは遅いのだ。
「出入り口に一番近い部屋は俺。その隣がクロト、ギン。角はセラだ」
二階の部屋の割り当てをワイルが決めた。
両端は年長者であり強い者、一番弱いギンは安全な場所になっている。
「広すぎて落ち着かないわね。ギンの部屋だけで充分な気がするのだけれども」
一番小さいクロトの部屋でも、族長のテントよりずいぶん大きかった。
城内で暮らすようになってから、三日間はギンの部屋で過ごしていた。
一人で寝るには大きすぎるベッドに四人丸くなって寝ていた。
やがて、セラが自分の部屋で寝ると言い、ワイルも続いた。
二人減ると、ますます部屋は広くなり、落ち着かなくなってきた。
クロトも近々離れていってしまう予感がして、ギンはますます不安になり、クロトが部屋から出ようとするとすぐ後をついていく。
「どこ行くの?」
「……小便」
クロトがそう応えても、ギンはついてくる。
「あのさぁ、俺にはゆっくり小便する時間もないのか?!」
少し声を荒げた。驚いたギンは小さい体を小さくして、目に涙を浮かべ上目遣いにダメなのと聞いてくる。
そういう顔をされると、強く言えなくなる。
「すぐ戻ってくるから部屋で待ってろ」
頭をなでてやった。
「うん」
安心したギンはクロトの言葉を疑うことなく、素直に頷いた。
クロトはこのままぶらりと城内を散策したかった。だが、少しでも帰ってくるのが遅くなったら、約束を守らなかったとギンは大騒ぎするだろう。
ギンを慰めてくれる人――ギンの両親や祖父はいない。全部クロト自身がしなければならないと思うと、うんざりした。
だいたい、皆、ギンを甘やかしすぎるんだよな。
用を足したクロトは、ギンの部屋へ戻った。
半獣人たちは特に何もすることが無い。
クロトは狩りをする仲間たちをバルコニーから見ては体がうずうずし、飛び出したくなる衝動を押さえていた。
いつもなら、荒野を駆け回り、獲物を狩っているのだ。
一度興味本位で街の中を歩いてみたが、人々は露骨に避けるので気分が悪い。与えられた西の塔とその付近でうろうろするしかない。
落ち着ける場所は小さな庭で、ここでテントを張って暮らした方が楽だと思った。
特異体質のワイルとセラは、特に不満もなさそうに見える。大人だから、すぐに慣れてしまったのだろうか。
それとも、溶け込んだ影から、瞬時に一族がいる荒野に移動して気晴らしをしているのだろうか。
「ねぇ、クロト」
ここでの生活に少し慣れたのだろう。ギンの表情が明るくなった。
バルコニーから人間が住む厚い壁に守られた世界を眺めていたギンはクロトに尋ねた。
人間が住む世界は、今まで育ってきた世界とは違い、興味深い物がたくさんあった。
「人間って、どうして動物飼っているの?」
ギンは牧場に放たれている羊を指差した。
「育てて食うためさ」
「食べるのに飼うっておかしいよ。どうして狩りをしないの」
「狩るより、楽だからじゃないの?」
「……変なの」
ギンは不満そうに頬を膨らませた。
「狩りをしないから、妖魔に襲われちゃうんだ」
「へたくそのお前がいうか?」
「今度は上手くできるよ!」
ギンは顔を真っ赤にし、ぷいっと背を向けて部屋に戻った。
クロトがギンに初めて狩りを教えたのは、ここ――神が見捨てた地に来る前にいた若草色が一面に広がる草原だった。
茂みに隠れたギンは銀白色の豹に、クロトは青褐色の黒豹に変身し練習した。
ギンは無謀にもワイルが倒した獰猛な妖魔――ムトゥントスを狩りたいといった。
無理だといっても聞かなかったのだが、タイミングよく現れた祖父がギンを諭した。
おじいちゃん子のギンは素直に聴き、大人の頭ぐらいの大きさしかないウサギによく似た姿の弱い妖魔――マズーを狩ることにした。
初めての狩りは上手くいかない。ギンが立てた足音に気付いたマズーは一目散に逃げた。
今度はじりじりとにじり寄ってから襲い掛かったのだが、ひらりとかわされ、ギンは後を追ったがマズーの方が足が速かった。
三度目は慎重に近づき飛び掛った。しかし、ギンは目測を誤り、マズーに一歩届かなかった。
初めての狩りでは、必ず狩った妖魔を持ち帰るのが慣わしだ。早く帰ってきた子程、腕がいい。
両親は昼過ぎには戻ってくるだろうと思っていたが、日が傾き始めても帰ってこないので心配になった。
そろそろと思っているうちに、日は沈み、夜になった。
それでも、ギンは帰ってこなかった。
怪我でもしたのかと不安になった両親がテントから出ようとすると、ギンがしゃくりあげて泣いている声が聞こえてきた。
戻ってきたギンの手には小さいマズーの長い耳が握り締められていた。
甥のクロトから話を聞くと、ギンは失敗に失敗を重ね、クロトに獲物を追い込んでもらってようやく仕留めたらしい。
あきらめなかっただけでもよくやったと母は誉めた。それでもギンは泣き止まなかった。
思った以上に狩りができず、情けなくて泣いているのか。
クロトにきつくいわれたのか。
それとも、白い姿が目立ちすぎたのか。
不安がよぎった両親はお互いの顔を見詰めた。
目立てば目立つだけ、危険にさらされる。
ギンには身を守る術をなるべく早く、たくさん教えよう。
まだ子どもの内は守ってくれる大人がいる。成長したら、自分の身は自分で守らなければいけないのだ。
怪我をし、狩りができない父はギンに教えられない。母は狩りに出、家族を養っている。
年若いクロトはまだ経験不足だ。
やはり、老いたとはいえ、狩りの達人であった祖父――族長に頼むしかない。
厳しい祖父の教えに、甘やかされてばかりのギンが耐えられるのだろうか。
練習を重ねたら上手くなれると父に励まされたギンはやっと泣き止んだ。
ギンの下手さ加減を直に見ていたクロトは、人の倍以上に練習しなければ到底一人での狩りは無理だと思った。
慣れるまで自分が見てやら無いといけないかと思うと正直うんざりした。
クロトはマズーさえもろくに狩れないギンに、教えてあげたいことが山ほどある。
練習をしたくても、高い城壁を越えてやってくる妖魔はギンの手には負えない。
背に翼を持つ移動能力の高い妖魔を狩るには、優れた跳躍力と一撃で仕留める能力がなければ難しい。
クロトは彼らを倒せる自信が無い。自分だけが失敗し、ワイルとセラがあっさりと仕留める姿をギンに見られたくない。
俺もギンも狩りの修練を積まなきゃいけないのに。
そのことをわかっていながら、じじいは下したのだろうか。
何を企んでいやがるんだが。
相変わらず得体の知れないじじいだ。
日が暮れ、静かな冬の夜が始まっていた。部屋を閉め切っていてもひんやりとしている。
「風邪引かないように、温かくして寝ろよ」
クロトはギンの部屋を出て行こうとすると袖を掴まれた。何だと振り向くと、ギンは不安そうに見上げていた。
「一緒に寝て」
慣れない内は一緒に寝ていたが、城での暮らし始めてから8日経った。
「もういい加減、一人で寝ろよ」
うんざりげにいうと、見る見るうちにギンの目に涙がじわりと浮かんだ。ギンはまだ一人で寝たことが無い。両親と一緒に丸くなって寝ているのだ。
乳離れするいい機会かもしれないと思ったが、一晩中泣かれるのも辛い。
ギンの境遇を不憫に思っているワイルとセラは甘い。朝泣きはらしたギンの顔を見たら、きっと、クロトを非難する。
「……わかった。今日だけだぞ?」
「うん」
ギンはうれしそうにベッドにもぐりこんだ。やれやれと頭をかきながらクロトはベッドに寝転んだ。
ギンは寄り添ってきた。ギンの体温が伝わり、気持ちが落ち着いてくる。
少し寒い夜は1人で寝るよりはいいかもしれない。
「何かお話して」
「何って言われてもなぁ」
大抵の話はしたので、ネタが浮かばない。
「じゃ、どうして妖魔は人間を襲うの?」
「それはだな。俺たちが弱い子どもの妖魔か遅い妖魔を狩るように、妖魔は俺たちより弱い人間を襲うんだよ。簡単に獲物にありつける方がいいだろう」
ギンはバルコニーから見ていた家畜を思い出した。
「妖魔は人間を食べて、僕たちは妖魔を食べる。人間は僕たちを食べないの?」
ギンの質問にクロトは応えてくれなかった。不安になったギンは恐る恐る尋ねてみた。
「……もしかして、僕たちを食べるの?」
「食べねぇよ」
「そう。よかった」
クロトがきっぱりといい切ってくれたので、ギンはほっと息をついた。
食べやしない。
だが。
まだ幼いギンに事実をいっていいのかクロトは悩んだ。
奴らは食べない。人間の姿をしている俺たちを。
食べない代わりに、獣の姿に変わった俺たちの毛皮を裂いて売り飛ばすんだ。
高山帯に住む半獣人の仲間は、淡色の厚く美しい毛皮のため狙われ少なくなっていると聞く。
暗褐色だが明るいところで見ると梅の花のような形の斑がある毛皮を欲しがる人間は余りいない。
だが、淡色のギンの毛皮を見たら、奴らは欲しがるかもしれない。
クロトは念を押すようにいった族長の言葉を思い出した。
――何があっても、人と争うな。
そんなこと、あいつら次第だ。
あいつらがギンを襲うようなことをしたら、喉笛噛み切ってやる。
規則正しい寝息が聞こえてきた。クロトの心配も知らず、ギンはいつのまにかすやすやと眠っていた。
貴族専用と思われるきらびやかな馬車が一台、城門を通り抜けて行った。
乗っているのは王妃だ。
半獣人を嫌う彼女は一人娘の結婚式に欠席し、式後は城内に獣臭が充満して呼吸も満足に出来ない、臭くて耐えられないと言い放った。
親ならば支えてやるべきなのに、半獣人の妃になった娘を残し、実家へ帰ると言い出した王妃を王は止めなかった。
昔から変わっていない。
15年前。
王がまだ皇太子であった頃、小国を守るため、緑豊かな大国の王家の姫を伴侶にと何度も交渉した。
大国の王は、何の旨みも無い小国を相手にはしなかった。
だが諦めずに何度も訪れる彼らに、うんざりしたのか、根負けしたのかはわからない。
大国の王は王女を嫁がせると承諾した。
小国の皇太子では、正妃の産んだ王女を望めない。
妾腹の中でも、たおやかな姫君をと期待していた。
だが、大国の王が選んだのは、妾腹の中でも一番高慢で尊大な姫だった。
王は姫に穏やかな笑みを浮かべ、飾り立てた耳ざわりのよい言葉を次々と述べた。
敬愛する父王自慢の娘だと感じた姫は、父王の語る言葉に気持ちよさそうに微笑んでいた。
王は小国の望みを聞く気は初めからなかったのだ。
どこまでも、嫌がらせをするのか。
わずかな望みさえも断ち切られたと言うのに、皇太子は不思議と怒りがこみ上げてこなかった。
これがこの国のやり方なのだ。
媚び諂うことなく、力を見せ付け、弱きものを踏みにじり、強大な国を守ってきたのだ。
表面上では穏やかに振舞いながらも、心の内では何を企んでいるのか。
失態があれば、直ちにわが国を滅ぼそうと考えているのかもしれない。
姫は小国の妃になるくらいなら一生独身のままでいいと抗議した。彼女の性格を把握している父王は言葉を巧みに操り納得させ、彼女の口から「嫁ぎます」と言わせた。
母を早く亡くし後ろ盾の無く頼る人がない。とりわけ美しくもなく、知的でもない、高慢な姫はやっかいだった。
難のある娘は、有力貴族にも、友好な同盟国にもやれない。
父王には何も言えないが、兄が王位に就けば、よけいな口出しをするに違いない。このまま王宮内に居続けられては困る。
闇に葬るべきかと考えていたところ、小国の皇太子が王女をと望んできたと知り、いい厄介払いができたと王はほくそ笑んでいた。
彼女は知らない――父王の胸内を。
考えたこともない――王座に就く者の苦悩と冷徹さを。
見知らぬ土地へ行く不安がなかったとは言えない。
だが、尊大な性格が災いし、彼女は自分よりも卑しい身分の者に頼ろうとはしなかった。
故郷の威厳があり気高い王宮とは違い、城内も質素で野暮ったく、ところどころがたがきていた。
豊かさも、華やかさもない。
故郷へ帰りたいと思った。
優美な白鳥が到来する美しい湖畔で、調べを聴きたい。
望郷の思いは高鳴り、父王に手紙を出した。届いた返事を何度も読み直してみた、期待する言葉は何一つ綴られていなかった。
何度も手紙を出したが、心が満たされる言葉は綴られていなかった。
これは何かの間違いだ。
優しい父王がこのようなことを書くはずがない。
父王に似た筆跡の者が代わりに書いているのだ。
あるいは、優しい父王の言葉が認められた箇所を握りつぶしていると思い込んだ。
何かにつけて疑う王妃――大国の妾腹の王女を慕うものはおらず、孤立していった。
長い間、王妃は辺鄙な国で楽しみも喜びも見出せないでいた。
8年前。
この国に来て、初めての宝物。
その美しさは見る人をひきつけてやまず、国外にも広がり、大国の王を虜にした父王の母の美貌に似た姫が産まれた。
その喜びは例えることはできない。
美貌の祖母に似た姫が産まれたと手紙を父王に出した。
しばらくしてから、王妃ではなく王宛に、父王が正式に小国へと訪問すると書かれていた手紙が使者を通じて届けられた。
父王は、孫娘を見て満足そうに笑った。
彼は、姫の教育係として数名の優秀な人材を派遣した。
清く、正しく、美しく。
聡明で誇り高い美姫へと成長するように。
王妃は父王の対応を愛情故にと思った。
父王は後々利用できるからこそ、鄙びた国では期待できない英才教育を受けさせたのだ。
王は大国の義父の干渉に、逆らえなかった。
至高の宝。
大国の王から称されたメイレア姫は、汚らわしい半獣人に奪われた。
王妃はたった一人の娘を差し出すことでしか守れないこの国に激しく憎んだ。
姫の婚約が決まった頃、父王から使者が手紙を携えてやって来た。
懐かしい父王の筆跡に心が震えた。
――戻って来きなさい。
希望を失った王妃は、ずっと待ち続けた父王の言葉に飛びついた。
生まれ育ったあの懐かしい荘厳たる王宮が脳裏に蘇る。
――メイレア姫は必ず私が助けよう。心配するな。まずは、お前が戻ってきなさい。
「お母様」
メイレア姫は馬車に乗り故郷へ帰る母に声をかけた。
もはや一人では歩けない王妃は侍女に手を引かれていた。メイレア姫は一気に老け込んだ母の姿に胸を痛めた。
メイレア姫に呼ばれた王妃は振り返った。
彼女の表情からは置いていく母を恨む色はない。やつれ衰えた母をひたすらに心配していた。
姫は――。
初めから父王に頼れば、姫は卑しい半獣人の妻にはならなかった。
父王への援助案を頑なに拒んだ王に激しい怒りがこみ上げてくる。
手を取り合うべき相手は、半獣人ではなく人間――父王だった。
頼りにならない田舎者の王よ。誤った選択に後悔するがいい。
王妃は必ずあなただけは助け出すとメイレア姫に伝えようとし抱きしめた。だが、小声で話しても彼女を支えている侍女に聞こえそうなので言葉を飲み込んだ。
「半獣の妻となろうが、あなたはこの国の姫です。そのことを忘れないように」
「……はい」
王妃が乗ると、馬車のドアがパタンと閉じられた。馬にムチを打ち、馬車はゆっくりと走り始めた。
メイレア姫は王妃を乗せた馬車が小さくなっても、その場から一歩も動かずに見詰めていた。
メイレア姫の従者サンソンは、姫の心内を察すると身が引きちぎられそうになる。
無能な王と自分勝手な王妃に憎悪の念が沸々と込み上げてくる。
一部の兵士たちの間では、この国を見限り、新しい国へ移り住む話が出ている。
サンソンは誘われたが、はっきりと断った。
俺は行かない。
護衛の俺が姫を捨て、他国で生きていくつもりはない。
この国で生まれた俺は、この国で生きていく。
獣の后となってしまわれたが、姫は姫だ。
これからも守っていく。
メイレア姫は別れ際母が告げた言葉を考えていた。
この国の姫でしかできないことは何なのか。
怖ろしい妖魔に怯え、妖魔を狩る半獣人に助けを求めた。
しかし、協力を求めたはずの半獣人と反目しあっている。
このままでいいのかしら。私が姫のままいても何も変わらない。
半獣人の妻である私にしかできないことがあると思うの。
メイレア姫はサンソンに思い切って自分の考えを告げてみようと、くるりと振り返った。
「ねぇ、サンソン。西の塔へ行ってはいけないかしら?」
「あそこはもう半獣人の住処です。行ってはいけません」
彼らしい返答にメイレア姫はため息をついた。
人の心は容易く変わらない。
「……ギンに会ってはいけないの?」
「会いたいのですか?」
サンソンの表情が険しくなった。半獣人をどうしてそこまで嫌うのかわからない。
メイレア姫は話に聞いた半獣人はとても恐ろしいと感じた。だけど、実際見て考えが変わったのだ。
花婿として城へやってきた小さな男の子。美しい銀色の髪と乳白色の肌、一度見たら忘れられない印象強い紅い色の目は不安と恐怖に怯えていた。
メイレア姫はわからなかった。
どうして、そんなに怖がっているのか。
あの恐ろしい妖魔を狩る半獣人に恐ろしいものなんてないと思っていた。
「私、妖魔を狩る半獣人をとても恐ろしい種族だと思ってたの。……でも、あの子、怯えていたのよ。私たちのこと怖いと思っているのかしら。だったら、ここが怖くないって教えてあげなくてはいけないと思わない?」
「お止め下さい。彼らと関わってはいけません」
サンソンは即座に応える。
「どうしていけないの」
「所詮は他種族です。分かりあえません」
「決め付けるのはよくないと思うわ」
メイレア姫はサンソンに相談しないことにした。サンソンは皆と一緒。半獣人が嫌いなのだ。
話を聞いてくれる人を探すより、直接ギンたちに会いに行ったほうが早いと思った。
メイレア姫はスタスタと西の塔へと歩き出す。
サンソンは西の塔へと向かおうとするメイレア姫の細く柔らかい腕を思わずとってしまった。
「申し訳ございません……」
深く頭を下げたサンソンに目もくれず、メイレア姫は西の塔へと走った。サンソンは急いでメイレア姫の後を追った。
幼い少女が先に走り出しても、大人の男の足ならすぐに追いつける。
なのに……。
なぜだろう。いくら走っても距離は縮まらない。
姫の姿がどんどん遠くなっていく。
気だけ焦るばかりで、上手く走れない。
ギンは裏庭で、枯れ枝を集めていた。
両手一杯集めてきたギンは、セラに誉められ嬉しそうに笑った。
次に戻ってきたクロトはギンよりもたくさん持って帰ってきた。どさっと地に置き、ギンのと見比べるとフンと鼻で笑った。
クロトに負けて悔しかったギンはもう一度探しに行こうとした時、ワイルが戻ってきた。
ワイルは山のように持ち帰ってきたが、セラに持ってきすぎだと怒られた。
いつもの食事は暖炉を使うのだが、今日はよい天気だったので裏庭で干し肉を焼いて食べることにした。
半獣人である彼らの主食は「妖魔の肉」である。
ギンの祖父である族長から大量の干し肉を祝儀にいただいた。
めったに食べられない妖魔の肉は育ち盛りのギンが全て食べつくしてしまい、残りほとんどはマズーの肉ばかりになってしまった。
クロトはほどよく焼けた肉をギンに渡した。ギンは二口肉を食べると、急に手を止めた。
ここ数日マズーの肉ばかりでギンは食べあきたようだ。
「生肉食べたい」
眉を八の字にして、ぼそりとつぶやいた。
「贅沢いうな」
考えなしに好きなものばかり選んで食べたギンのつぶやきに、イラッときたクロトは食べ終えた骨でぽかりとギンの頭を叩いた。
新鮮な生肉を食べたいなら、妖魔を狩るしかない。
高い城壁を越えてやってくるのは、背に翼を持つ移動能力の高い妖魔――クルガだ。
クルガは頭が鋭い嘴のワシ、体は馬の形をしている。前足は鋭い爪を持つ鳥類で後足が奇蹄目、しっぽはヘビだ。
強くは無い妖魔だが、上空高く飛んでいるクルガを狙うのは難しい。
クルガが地上にいる獲物に狙いを定め、急降下してきたところを狙うしかない。
クルガが上空を飛びはじめると、5〜10の群れで狼と猿の二つ頭の鳥類系妖魔――ギストがやってくる。
半獣人が狙うのはギストだ。
狩りを始める半獣人は、獣の姿に変身する。
ギンたち一族は黒豹だ。
彼らは普段は単独で狩りを行うが、獲物が大きい場合は仲間と協力して狩りを行う。
低空飛行を続けるギストに忍び寄り、高く飛び上がって背骨を折り叩き落す。
待機していた仲間が素早く頸に咬み付き、牙を頚椎と頚椎の間に差し込み神経を切断し仕留める。
「明日、妖魔がどの辺りまで来ているのか聞いてこよう」
すねているギンを見かねたワイルが提案すると、クロトが「俺も行く」と続いた。
「お前はいろ。二人もいなくなったとばれたらやっかいだからな」
「ばれねぇと思うけどな」
ここから出るきっかけが欲しかったクロトは唸った。
西の塔は今まで暮らしてきたテントとは比べ物にならないくらい広いが、石で造られた建築物には息がつまりそうになる。
自由に駆け回って、跳び回りたい。
「用心に越したことは無い」
焼いた干し肉を食べていたセラの手が止まった。何かの気配を感じ取ったらしい。
「誰か来たね」
あぁとワイルは頷いた。
半獣人たちは警戒する。ワイルとセラはいつでも攻撃できるように中腰になり、ギンはクロトの背にさっと隠れ、クロトの腰に巻いた布をぎゅっと掴んだ。
彼らが警戒する中、現れたのはこの国の王女メイレア姫だった。
蜂蜜色の髪に、穏やかな空の色に似た碧眼。折れてしまいそうな細い体に、柔らかそうな肌。
人々は彼女を美しいと褒め称えるが半獣人には理解できなかった。
彼らには独特の美しさの基準がある。
額の傷は真っ向から敵と立ち向かった勇猛な狩人の印である。逆に、傷の中でももっとも忌み嫌われるのは背中で、傷が大きくなるにつれて弱いと認識される。
一度ギンは、額に傷をもつワイルのようにクロトにも傷があるのと聞いた。勿論とこたえたが、どこにあるのか見せてと言ったら殴られた。
自慢できるところに傷があるのなら、クロトは威張りくさって言っていただろう。
言わなかったということは恥ずかしいところにあるのだろう。
「何の用かな。姫さん」
クロトはにこやかに笑いながら近づいた。人見知りするギンはさっとセラの側まで走っていった。セラの後ろに隠れメイレア姫とクロトの様子を伺う。
「ギンはどうしているのかしらと……」
メイレア姫はセラの後ろに隠れているギンをちらりと見た。
クロトに名を呼ばれたギンは何? と小さな声で尋ねた。
「お前に会いに来たんだって」
ギンはセラの後ろに隠れたまま、何も言わない。
「おいおい、嫁さんにもうちょっと愛想良くしろよ」
ギンはますます固くなっていった。
こっちにこいとクロトに呼ばれたギンは、怯えながらおずおずと近づいてきた。クロトの後ろに隠れ、腰に巻いた布にしがみついたまま動かない。
メイレア姫は不思議な感じがした。
妖魔を倒す半獣人が私を怖がっている。私のどこが怖いのだろうか。
にこやかに対応していたクロトの表情が急に変わったのをメイレア姫は見逃さなかった。
まるで獣が毛を逆立てるかのようだった。
メイレア姫にはわからない何かを感じ取り、警戒していた。
「姫」
ようやく追いついたサンソンが現れた。短い距離しか走っていないのに息が上がっている。額から流れ落ちる汗を手の甲で押さえていた。
半獣人たちは、護衛の男が持っている鋼と鋼が擦りあう音が不快でたまらなかった。
腰にさしてある剣。
あれさえなければ、人間は非力な生きものでしかないのに。
サンソンの登場に半獣人たちが警戒を強めた。
メイレア姫はまだ獣の姿に変わった彼らを見たことがない。だが、彼らからもう一つの姿である獣を感じていた。
きっと、ここで彼らが獣の姿に変わってしまったら、取り返しの付かないことになる。
そう思ったメイレア姫は、緊迫した状況を打破したい一心で思い切ってギンに声を掛けた。
「ねぇ、ギン。いいところに連れて行ってあげる」
メイレア姫はギンの手をとって走り出した。
「え、えぇ?」
メイレア姫の手は柔らかく、温かく、細い腕から考えられないくらいに力強かった。
ギンはひっぱられていく。転ばないように走った。
「姫」
走り去っていく小さな二人の後をサンソンは追おうとしたが、軽やかに前に飛び出してきたクロトに止められた。
「何もねぇから、放っておいてやれよ」
小さな子ども同士。
何もないかもしれない。
だが、俺は姫の護衛なのだ。離れるわけにはいかない。
「……失礼する」
サンソンは一礼すると、メイレア姫の後を追った。
メイレア姫に任せるがままに辿り着いた先は、西の塔の屋上だった。
一気に駆け上ってきた二人は息を弾ませていた。
深呼吸してから、メイレア姫は沈みゆく太陽を指差して言った。
「ほら、あなたの目の色と似ているでしょう? 綺麗ね」
「……」
西の地平線に沈みゆく夕日を見詰めていたギンはやがて俯いた。
「? どうしたの」
メイレア姫が尋ねると、聞き取れないくらいの小さな声が返ってきた。
「そんな風に……思ったことない」
ギンは泣きたくなってきた。
今までずっと気持ち悪いと思っていた容貌を、彼女のたった一言で救われた気持ちになってはいけない気がした。
長い間、悩んでいたことを簡単になかったことにはできなかった。
「じゃ、これからそう思ったほうがいいわ」
メイレア姫は笑った。
邪気のない笑顔が眩しすぎて、ギンは戸惑った。
種族が違うと考え方も違う。
皆と違う不吉な容姿は、人間から見れば綺麗なものに見えるのだろうか。
この紅い目を、落陽と同じように思っていいのだろうか?
疑問を応えてくれるクロトは今いない。
自分で考えて、決めてしまっていいのだろうか。
ギンが判断に迷っていると、カチャカチャと鋼と鋼が擦れあう嫌な音が聞こえてきた。
身の危険を感じたギンは逃げ場を探したが、長くのびた斜影しかなかった。
メイレア姫を置いて、影の中に飛び込むことはできない。
ギンは半獣人にしか聞こえない声で、クロトの名を呼んだ。
――何もねぇから、放っておいてやれよ
若い半獣人の男がいった。
半獣人の子どもの手をとって駆け出していったのがただの少女なら、サンソンは追っていかなかった。
一国の姫だから。
それ以上に彼女を強く想う心が、彼らを二人きりにさせてはいけないと彼の心を乱した。
階段を駆け上っていく子どもたちの軽やかな足音を聞きながら、サンソンは一段抜かしで上っていく。
彼らの姿を捉えてもおかしくはないのに、二人の姿が見えないのは何故だ。
わからない。
俺は何故こんなにも動揺しているのだ。姫の心が半獣人に興味を抱いているからか?
種族が違うのだ。
わかりあえるはずない。
姫。
半獣人は、妖魔を狩るために雇ったのです。
それがまだお分かりにならないのですか?
ようやく城の最上部に辿り着いたサンソンは、夕日を背に穏やかに笑うメイレア姫を見ると、乱れた心が次第に落ち着いていった。
美しい姫を前に、萎縮している小さな少年の姿は微笑ましいものだった。
彼が人間だったら、素直にそう思えただろう。
だが、彼が半獣人なのだ。
妖魔を狩り、食う。汚らわしい種族なのだ。
柔らかくなったサンソンの心が憎悪にとらわれていく。
「姫、戻りましょう。冷えてきました」
サンソンはメイレア姫と怯えるギンの間に入った。
「じゃあ、またね。ギン」
メイレア姫は朗らかに笑い、一度ギンに振り返ってから西の塔を後にした。
ギンは手を振りたかったが、護衛の男の背から発する憎悪の念を感じ取り、何も出来なかった。
紅い目を綺麗だと言ってくれたのはメイレア姫だけだった。
護衛の男もこの容姿を一族の者と同じように不吉だと感じているのだろうか。
メイレア姫だけが特別なのかもしれない。
「よぉ。……どうした? いじめられたか?」
影の中から胸の辺りまでにょきりと体を出したクロトがにまにま笑いながら聞いてきた。
わかんないとギンは首を横に振った。
「姫様は嫌な人じゃないのかもしれない」
「そうなのか?」
うんとギンは頷いた。そして恥ずかしそうに告げた。
「あのね、僕の目の色、綺麗って言ってくれた」
人見知りの激しいギンが短時間で懐き、こんなに嬉しそうに話す姿をはじめて見た。
一族の皆は近親婚を繰り返し警鐘しにきた白い子――銀色の髪、紅い目の誕生を喜ばない。
白い子が生まれた血族の誰かが去らねばならないと知っているから、特別な容姿を評価しない。
自分の気にしているところを誉められたら、そりゃ懐くわな。
例え、それが他種族であろうとも。
「口説き落とされたってことか」
「何それ?」
ギンは首をかしげて尋ねた。時々クロトはギンにはわからない言葉を使う。
「姫は自分を好きになってくれる作戦に出たんだよ」
ニマニマ笑いながら話すクロトの表情は何だかいやらしかった。
寝静まった後、若い男子がこっそり集まって女の子のことを話している時と同じ顔だと思った。
「そんなこと考えて無いと思うよ」
「ばーか。女は小さくても魔物なんだよ」
「どういうこと?」
「ガキはまだわからなくていいんだよ」
また、わからないことをいう。
だったら、言わなきゃいいのに。
ギンはクロトが差し出した手を躊躇うことなく掴んだ。
二人は星が瞬きはじめ、冷たい風が吹き始めた屋上から去っていった。