I Wanna Cry


【 序 】

 人は、憂いて優しくなる。

 誰が言ったのかは忘れた。
 ふと思い出してしまうくらい、俺は「優しさ」に餓えているのかもしれない。

 あの日は一日中冷たい雨が降っていた。
 今日の売上を計算し終えた後、司と他愛の無い話をして家へ帰った。
 帰宅時間は普段よりも遅かった。
 誰もいない家に、ただ寝に帰るだけ。
 
 そんな日に限って、玄関のドアにもたれて待っている万里子がいた。
 いつから待っていたのだろうか。
 万里子は冷え切った体をさすって暖めていた。

 万里子はすっぴんだった。何か――夫ともめて飛び出してきたのだろう。

「急に会いたくなったの。迷惑だったかしら?」

 時々、万里子は思わず抱きしめたくなる顔をする。
 いつもは男に弱いところを見せない。男がいなくても一人で生きていけそうな強い女のように振舞っているが、 無理に突っ張っているだけで、本当は繊細で傷つきやすい。
 誰かが側にいなければ不安で仕方ない。

「いや……」

 中に入れよと鍵を開けた。万里子はうんと頷いたが入ろうとはしなかった。

「……どうした?」
「……うん」

 万里子はゆっくりと視線を上げ、俺をじっと見詰めて告げた。

「私、別れようかな……」

 待ち望んでいた言葉だった。
 ずっと待ち続けていたというのに……。

 俺は喜べなかった。
 期待しただけむなしくなる。

 そう。何度、期待して裏切られただろうか。
 裏切られた時の痛みが未だ胸に残っているから、素直に喜べない。

「できもしないこと、簡単に言うな」

 思ってもいない言葉だったのだろう。万里子は今にも泣き出しそうな顔をした。

 俺が別れろと言えば、万里子は旦那と別れる決心をしたかもしれない。
 だが、実行にうつすとは考えられなかった。

 万里子は、俺とは共に生きてはいけない。
 俺には万里子を満たす物――財力も地位も何も無い。

 万里子にとって、俺は雨露をしのぐ止まり木。
 雨雲が去ると、羽を広げてすぐに青空の向こう側へと飛び立ってしまう。
 俺は追いかけることもできない。自らの足では動けない樹木と同じ。

 いつもそこに行けば、あるもの。
 月日が過ぎ朽ち果てるまで、そこに存在しているもの。

「そうね。ごめん……」

 万里子は暗闇の中へと消え去っていった。
 俺は別れたあの時と同じように、追いかけられずその場に立ち尽くしていた。

 俺はどうしていつもこうなのだろう。
 肝心なときに何もできない。

 春は嫌いだ。

 独り身には包み込むような暖かい日差は辛すぎる。

 花揺れる春の季節だと言うのに、俺は謳歌できず、後悔ばかりしている。

 いつまで、こんな毎日を繰り返すのか。

 想うことに疲れ果てたのか。
 
 俺だけを見ていてくれる人が欲しい。
 俺はその女を、愛するだろう。


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